[第201号] 台湾茶・台湾コーヒーの名産地「阿里山」を訪ねる

先月、台湾茶・台湾コーヒーを代表する産地「阿里山(ありさん)」の農園を訪問し、生産者と対話する機会を得ました。阿里山は山の名称ではなく、18の高山から成るエリア一帯を示す地域名を指し、台湾最高峰の茶葉・コーヒー豆を生産する地域ブランドとして、特にアジア圏の愛好家から絶大な支持を得ています。台湾は標高3000m以上の山が268座存在する世界一の高山密集国であり、その地形を生かした標高1000m以上の土地で栽培される「高山茶」「高山コーヒー」は、高山特有の朝晩の寒暖差、強い日差しと頻繁に発生する霧によって、香り高く、旨みが凝縮され、世界トップクラスの高品質を誇ります。

標高の高さは、高い品質を維持するための栽培要素である一方で、急斜面の畑が多く、機械力を駆使することが困難であるため、台湾茶・台湾コーヒーは手作業による少量生産となり、よって必然的に高価格となります。また、世界のお茶やコーヒー業界の多くは大企業傘下のもと、後進国での機械化大量生産が主流ですが、台湾はファミリービジネスにおける少量生産が主流です。近年はブランディングの意識の高まりによって、直販体制が構築され、さらに人材確保の観点からも適正価格を目指した高価格化が進んでおり、価格に関しても世界トップクラスです。ただ、最近の傾向として、最上級クラスを中心に、アジア圏の茶・コーヒー愛好家による買い占めが激化しており、中でも台湾コーヒーは、国内最大の消費地・台北市内においても品薄状態となっています。

台湾の高山茶・高山コーヒーは、高山の恵みと手作業による丁寧な栽培によって、極上の1杯が堪能できます。まず、「高山茶」の特徴として、高山特有のテロワール(土壌や気候など)を含んだ様々な香気が感じられます。①ズズっと、すするように飲むと、新緑のような清々しい香り「高山気(こうざんけ)」が鼻から頭全体へ広がります。②次に上質な甘み「回甘(ふいがん)」が広がりますが、飲んだ瞬間ではなく、次第に広がってくる甘みです。③それらの香気は、喉元を包み込むような余韻で満します。この余韻を「喉韻(ほうゆん)」と言い、台湾茶愛好家を虜にする所以です。これらは標高が高くなるほど強く感じられる傾向にあり、この感覚をマスターすると、台湾茶の楽しさは格段に広がります。台湾の高山が育むテロワールを五感で感じるお茶のひととき。是非、皆様もお試しください。

そして、台湾コーヒーは、台湾茶の土壌の影響を受けてか、どことなく台湾茶の香気がを感じられ、華やかな香りと、高山特有の美しい酸味が特徴です。複数のコーヒー農園を訪問しお聴きしたのは、その特徴を引き出すためには「焙煎は浅煎りにして欲しい」というのが、生産者の共通の想いだということです。コーヒー豆は「コーヒーチェリー」という果実の種であり、もとはフルーツ。焙煎を強く(深煎り)するほど、焙煎の香ばしさが勝ることから、「焙煎によって素材感を崩してはいけない」という信念を持っており、阿里山の生産者直営のカフェでは、全て浅煎りで提供されます。世界のコーヒー業界は、セカンドウェーブ(深煎り)からサードウェーブ(浅煎り)へと移行しており、焙煎香は出来る限り弱めにして、コーヒー豆のテロワールを五感で感じる時代になっていることを、あらためて体認しました。

茶畑の隣にコーヒー畑が存在する、珍しい光景が広がる台湾。お茶とコーヒーが、同じ産地で産業として発展していることは、世界的にも稀なケースであり、台湾農業の特異性とも言えます。長年に渡り継承された茶栽培の技術が、近年、畑の面積が拡大しているコーヒー栽培の技術にも応用され、産地内における異業種連携も盛んに行われています。先祖代々、一族の繋がりを大切にする台湾人は、自国の文化を尊重しながら、より高い栽培技術の向上を目指し、高価格ではあるものの、その品質には揺るぎない信用性があります。この度の視察は、台北市内の直営店で、阿里山高山茶を製造販売する社長のご案内による3日間の阿里山訪問でしたが、歴史と文化に触れ、生産者のものづくりの想いをお聞きし、多くの気付きと学びがありました。実際に産地を訪問し、生産現場を生で見る、そして生産者へ耳を傾けること。この重要性を再認識した視察となり、燕三条の産業観光、玉川堂の工場見学にも活かしていきたいと思っております。

[第200号] ウィーン万博 〜日本工芸の新たな幕開け〜

来月「大阪関西万博」が開幕します。万博の歴史は、1851年(嘉永4年)「ロンドン万博(第1回)」を起源とし、日本と万博の関わりは、1867年(慶応3年)「パリ万博(第2回)」にて、徳川幕府・薩摩藩・鍋島藩が、それぞれ独自ブースで出展したことに端を発します。日本ブーム「ジャポニスム」の契機となった万博であり、薩摩藩のブースを訪れたルイヴィトン2代目ジョルジュ・ヴィトンは、漆器に描かれていた島津家の家紋「丸に十文字」のデザインに感銘を受け、「L」と「V」を掛け合わせたモノグラムが発案されたと言われています。そして1868年の明治維新を経て、明治政府が日本として初めて公式参加した万博が、1873年(明治6年)ウィーン万博です。開国間もない日本を世界へPRする絶好の機会として、多数の大工をウィーンへ派遣して日本館を建築し、全国の工芸品などを大挙して出品。ジャポニスムはますます加熱していきます。

江戸時代、日本は戦争の無い社会が約250年間続き、当時、世界的にも類のない太平の国でした。世界各国の技術革新が軍用品に向けられていた中、日本の技術革新は趣味を満たすための工芸品「趣味的工芸(造語)」に向けられており、将軍家や大名らがパトロンとなる中で、工芸職人たちは自慢の技を競い合っていました。また、日本は約200年以上に渡り鎖国が行われていたことから、その高度な工芸品は国外に流出せず、世界の美術コレクターに知られることなく、日本人のみが享受していたのです。しかし、江戸幕府が崩壊し、明治政府が誕生すると、将軍家や大名の後ろ盾を失った工芸職人たちは失職し、技術を発揮する場を失います。その時の救世主となったのが「万博」でした。

明治政府にとって、開国後の新しい日本を世界へPRする使命は、これまでの万博よりも格段に上がりました。国の権威をかけ、江戸時代に日本で最も進化した技術「工芸」を中心に出品し挑んだ、新政府の万博デビュー戦であるウィーン万博。工芸技術のレベルの高さに世界中が驚愕し、展示品は美術コレクターがこぞって購入。会場の一番人気は、未知なる極東の国・日本でした。政府も職人たちも、想像を遥かに上回る好反応を得たことから、日本の工芸は「輸出」によって、新たな活路を見出すことを決意します。そして5年後の1878年(明治11年)、パリ万博(第3回)では、さらに精巧で、かつ大型の工芸品「明治輸出工芸」を出品。日本は存在感を一層高めると共に、ジャポニスムは最高潮を迎え、日本様式は欧州で大ブームを巻き起こします。

ウィーン万博の大成功は、明治政府の国内事業においても大きな波及効果を及ぼしました。万博の国内版を開催しようと、ウィーン万博の4年後、1877年(明治10年)、東京の上野公園で「内国勧業博覧会」を開催。この博覧会によって、全国より多くの工芸職人が出品できるようになり、地方色豊かな工芸品が幅広くお披露目されると共に、国民の工芸に対する意識が高まり、現在の伝統工芸産地の礎が築かれました。そして、内国勧業博覧会のために建築されたのが、現在の「東京国立博物館」です。国内での博覧会の開催が博物館の設置にも繋がり、以降、全国各地で博物館が建築され、日本の文化に対する意識の高まりが大きく芽生えたことも、万博がもたらした波及効果と言えるでしょう。

玉川堂にとってもこの時期は、ウィーン万博への出品、その後の内国勧業博覧会によって、鍋・釜・薬缶などの日常雑器から、本格的な工芸品へと製作転換を図った変革期に当たります。当時の玉川堂2代目・玉川覚次郎は、ウィーン万博出品の際、を「玉川堂」とし、出品作に初めて「玉川堂」の刻印を打刻しました。そして、ジャポニスム絶頂期の1882年(明治15年)、長男・玉川覚平は30歳の若さで3代目に就任し、多数の万博へ出品することで、玉川堂の技術力は飛躍的に向上しました。それと共に3代目弟の玉川寅治は、堪能な語学を活かして輸出事業を開始し、玉川堂新世代による流通改革が推し進められ、現在の玉川堂の礎を築いたのです。

玉川堂200年を超える軌跡の中で、技術的・商機的にも大きな転期をもたらす機会となった「万博」の存在。来る6月16日〜18日、大阪関西万博において、読売新聞社様・日本工芸産地協会との共催会場の中で、玉川堂ブースを設け、会社研修として全社員と共に、万博会場入りします。玉川堂のブランド理念「考働バイブル」の一つに、「歴史を学び、歴史を担う自覚を持つ」という言葉あります。万博の歴史を学び、そして実際に万博を観て、これからの工芸のあり方を、全社員であらためて深めていく場にしていきたいと思っております

[第199号] 浅煎りで切り拓く台湾茶・台湾コーヒー

お茶は、不発酵(緑茶)・半発酵(烏龍茶)・完全発酵(紅茶)など、同じ茶葉でも発酵度合いによって品種が決まりますが、台湾では烏龍茶が主流です。台湾は九州本土とほぼ同じ面積ですが、標高3000m以上の山が268座も存在する、世界一の高山密集国であり、その中でも海抜1000m以上の茶畑で栽培される「高山茶」が、台湾茶の特色です。朝晩の気温差が大きいため、上質な甘みが際立ち、高山茶の品質と価格は、標高に比例して高まる傾向にあります。そして、発酵の他に焙煎によっても味覚は異なり、以前は深みのあるコクと香りを引き出すために、強めの焙煎「濃香(ノンシャン)」が好まれましたが、近年は、茶葉本来の香りを引き出すために、焙煎を行わない、または弱めの焙煎「清香(チンシャン)」が主流となっており、色彩も味わいも、烏龍茶でありながら緑茶に近い印象となっています。

お茶王国・台湾において、近年、コーヒー文化の進化は目覚ましいものがあります。日本統治時代の1900年頃、天皇の献上品としてコーヒー栽培が始まったことが、台湾コーヒーの起源ですが、それから100年後の2000年頃より、台湾でコーヒーブームに火が付き、国内のコーヒー消費増加率は世界トップクラスにも上る勢いです。このコーヒー需要の高まりを受けて、地産地消を目指すべく、台湾国内のコーヒー畑の面積は増加傾向にあります。中には、台湾茶の生産者がコーヒー豆栽培も行う、もしくはコーヒー豆栽培へ転業するケースも増え、台湾茶の栽培で蓄積された技術と品質管理が、コーヒー豆の栽培にも活かされるようになりました。今台湾は、世界のコーヒー愛好家が注目する高品質の豆の生産国として脚光を浴びており、台湾農業は大きな変革期を迎えています。

昨年2024年11月、台北市内で毎年開催される国内最大の台湾茶・台湾コーヒーの見本市「台湾国際茶業博覧会」「台湾国際珈琲展」の視察へ行きました。お茶とコーヒーの国内最大見本市の同日程・同会場での開催は、台湾ならではの展開であり、お茶とコーヒー愛好家が集結し、身動きが取れないほどの大盛況でした。一般的に、世界のお茶とコーヒー業界は、大企業傘下のもと、賃金の安い国で大量生産が行われますが、台湾はファミリービジネスで規模は追わず、高品質を目指す傾向にあります。その高品質を支えるのは、高山における標高の高い場所での栽培であり、重機の使用は困難なため人手による手作業が多く、よって必然的に高価格となります。見本市会場で多くの生産者と出会いましたが、台湾人の誠実で実直な人柄も、高品質の茶葉やコーヒー豆に繋がっていると感じました。また、茶器やコーヒー道具の展示ブースでは、機能性やデザインの進化に目を見張るものがあり、台湾のものづくりの精神と感性の高さも目の当たりにし、台湾の両産業の勢いと共に、台湾ブランドとしての高い将来性を感じる視察となりました。

台湾茶のトレンドは、深煎りの「濃香」から浅煎りの「清香」へシフトしましたが、世界のコーヒー業界においても、深煎りで強い焙煎香や苦味を楽しむ「セカンドウェーブ(第2コーヒー文化)」から、浅煎りで豆本来の香りを楽しむ「サードウェーブ(第3コーヒー文化)」へシフトしています。コーヒー豆は果物(コーヒーチェリー)であり、上質な肉と同様、火入れは最小限にすることによって、コーヒー豆の産地と生産者の個性が引き出されます。台湾コーヒーの特徴は、台湾茶のテロワール(土壌や気候など)が、コーヒー豆の風味にも影響していると思われ、柔らかな甘味と清々しい酸味が特徴で、どこか台湾茶の味覚に通じるものがあります。それらの特徴を引き出すためには浅煎りが最適で、世界のコーヒー豆の中でも台湾産コーヒー豆は、特に浅煎り向けの素材であり、サードウェーブの時流に乗っています。

 私は以前、焙煎香を楽しむ深煎りコーヒーが好みでしたが、台北市内のカフェで飲んだ浅煎りコーヒーに感銘を受けて以来、その味覚に目覚め、浅煎りの特色である「美しい酸味」の抽出を楽しんでいます。浅煎り特有の酸味が苦手という方も、台湾コーヒーを飲めば、その概念は払拭されるのではないでしょうか。また、浅煎りの台湾茶は、茶葉本来の高原に咲く花のような香りと、透明感のある味わいがダイレクトに伝わってくるのが大きな魅力。和食や和菓子とのペアリングも相性が良く、こちらも是非お試しください。台湾はお茶とコーヒーの両方の栽培に適した稀有な地域で、茶畑と茶畑の間にコーヒー畑が広がる、珍しい景観が広がっています。今年3月、台湾茶と台湾コーヒーを代表する産地「阿里山(ありさん)」へ行き、生産者を訪問する計画を立てています。歴史と文化、テロワール、作り手の想いなどを学び、玉川堂製の茶器とコーヒー道具の商品開発に活かしていきたいと思っております。

[第198号] 伝統工芸のラグジュアリー戦略

 欧州の王族・貴族などが絶対的な権力を握った時代において、ラグジュアリーとは特権的な贅沢や豪華さの表現であり、富や地位を表すものでした。しかし、産業革命によって資本家が台頭すると、その優雅な生活スタイルを「私たちも取り入れたい」という欲望が芽生え、これが現在に繋がるラグジュアリーの起源となります。金銀宝飾品や豪華なドレスだけではなく、手業を駆使した地場産製品もラグジュアリーであるとして、職人の価値観に基づいた趣味性の高い製品も着目され始めたのです。例えば、CHAUMET(ショーメ・創業 1780 年)などは、王族・貴族を顧客 として創業した宝飾品のブランドですが、HERMES(エルメス・創業 1837 年)は「馬具」、LOUIS VUITTON(ルイヴィトン・創業 1854 年)は「旅行鞄」など、あるカテゴリーに特化し、名も無き若手職人による小さな工房からのスタートしたこれらのブランドは、いわば現在のベンチャー企業のような存在。後に比類の無い商品開発力が大きな話題を呼び、両社共に万博を契機に、ラグジュアリーブランドとして時代の寵児へと駆け上がったのです。

 ラグジュアリーブランド研究の第一人者・早稲田大学ビジネススクール長沢伸也教授は、プレミアムは製品間の「比較優位」であることに対し、ラグジュアリーは比較対象の無い「最高無比」という点に、大きな違いがあるとしています。さらに、ラグジュアリーとは「心のありよう」であり、モノではなく人の心を指すと定義。例えばフェラーリは、維持管理が大変で頻繁に修理が必要ですが、手が掛かることで愛着が湧き、それが価値となり、顧客の豊かな生き方へと繋がっていきます。一方で完璧であることは、逆に人が手をかけ愛着を育てる余地を無くしてしまう。この余白とは言い換えると、オールマイティーを目指すのではなく、職人のこだわりを圧倒的なまでに高め、時間と手間を掛けて育て続けることの価値を意味します。感性に響く「最高無比」の、趣味性の高いモノづくりを行うことこそがラグジュアリーであると考えています。

 数年前、ロゴや派手な装飾を排した「クワイエット(控えめ)ラグジュアリー」というワードが生まれ、一大トレンドに浮上しました。その旗手として注目されるのが、最高級カシミアを主力商品とする「ブルネロ・クチネリ」です。イタリア中部、人口約 500 人・ソロメオ村に本社・工場があり、社員の幸せを追求する「人間主義的経営」をミッションに掲げ、自然豊かな工場で「感性価値」を高めるモノづくりが実践されています。工場脇には技術養成学校で若手職人の育成が行われ、さらには、劇場・農園・図書館などの施設も充実。職人の文化教養の育成だけでなく、近郊の住民や世界中の顧客にも開放され、産業観光施設の成功事例としても視察の絶えないブランドです。さらに、職人の高収入、残業ゼロ、趣味の充実を奨励し、働くために休むのではなく、休みを楽しむために働くという思想が醸成され、「世界で一番美しい会社」とも言われています。

 ブルネロ・クチネリの主力品である 100 万円のカシミアジャケット。購入する顧客にとって、ジャケットを着ることや手入れをすることの幸福感だけでなく、技術養成学校を含めた職人への支援、ソロメオ村への地域還元など、理念に共感すること自体が顧客の人生の豊かさや生き方に繋がっており、製品価値のみに留まらない有形無形の価値が含まれています。創業者の CEO ブルネロ・クチネリ氏は、「人間主義的経営」についての本を出版するなど、職人の感性価値を高めるための理論を言語化し、哲学者としても著名な存在。その理念は社員だけでなく顧客へも明確に伝えられ、その倫理的価値を背景とする購入傾向の高さが、同社の最大の特徴と言えます。

 日本は、継ぎ接ぎしてまでも着物を一生着続けるという文化がありました。それはモノが十分に無かったからという物質的な理由では無く、モノを大切にする、日本人の良識の反映と言えます。これからは、このモノを大切にする価値観を、明確な理念と最高無比のモノづくりによって「美意識」に昇華させ、顧客の「生き方」を豊かにする方向へと強くリードしていくことが、今の日本の伝統工芸業界に求められています。ラグジュアリーとは、愛着を持ってモノを大切にする豊かさ、いわば心の豊かさ。この追求こそがものづくりの本質であり、伝統工芸のラグジュアリー戦略です。玉川堂ブランドフィロソフィー「流行に応えることは、私たちでなくても出来る。生き方を問うことは、私たちだから出来る。」。生き方とは何かをより深く追求し、伝統工芸の未来を切り拓いていきたいと、心新たにしております。

[第197号] 時と共に成長する沖縄泡盛「仕次ぎ」

 文化庁は先月11月、ユネスコが「伝統的酒造り」を無形文化遺産に登録するよう勧告したと発表し、今月12月初旬、正式決定される見通しです。日本の「酒造り」は、麹の使用という共通の特色を持ちながら、全国各地でそれぞれの気候風土に合わせて、日本酒・焼酎・泡盛・みりんなどが製造され、複数の発酵を同じ容器の中で同時に進める、世界でも珍しい技術を活かした酒造りです。この日本の伝統技術に加え、「酒が祭りや結婚式などの日本の行事に欠かせない役割を果たしている」など、酒造りの文化的側面が日本社会において深く根付いていることも評価されました。2013年、「和食」が無形文化遺産に登録され、世界へ普及する後押しになったことから、日本の酒も世界市場拡大の追い風となりそうです。

 この発表は新潟県内でも大きな話題となっており、歓迎ムードに包まれています。新潟は酒蔵数が全国一の県ですが、日本酒の生産量は兵庫県・京都府に次いで第3位という数字が表しているように、大規模な酒造会社のある兵庫や京都に比べ、小規模の酒蔵が点在していることが新潟の特徴です。量より質を追求する傾向が強く、高品質の吟醸酒や純米酒が生産され、料理を引き立てる日本酒が本流であるという精神のもと、「淡麗辛口」「新潟淡麗」と評されるスッキリとしてキレのある味わいに特色がある新潟の日本酒は、まさに食中酒として最適です。様々な料理と合わせやすいことから、和食以外のペアリングも無限大で、登録を契機に、世界の食文化と新潟清酒のマッチングが期待できます。

 先月11月、沖縄で開催された「ファミリービジネス学会」において、沖縄県酒造組合会長で瑞泉酒造6代目・佐久本社長は、無形文化遺産登録は泡盛の魅力を国内外へ発信していく好機であると意気込んでおられました。琉球王朝時代から約600年の歴史を持つ泡盛は、日本最古の蒸留酒であり、徳川幕府や薩摩藩への献上品としても珍重された日本の酒文化を象徴する存在。琉球王府が認めた家以外での酒造りは禁止され、さらに、首里城周辺の指定地域のみ酒造りが許された名残から、瑞泉酒造は現在も首里城の脇で酒造りを行っています。佐久本社長曰く、泡盛の最大の特徴は、数百年以上の熟成に耐える「古酒(くーす)」であると主張しており、古酒に関する様々なお話をお聞きし、沖縄独自の酒文化の風習に感銘を受けました。

 古酒(くーす)は、熟成を重ねた泡盛に若い泡盛を少しだけ注ぎ足す「仕次ぎ(しつぎ)」を繰り返すことで3年以上熟成されたものを指します。親酒に2番酒を、2番酒に3番酒を、3番酒に新酒を、という順番で仕次ぎを行いますが、それを年に1回、各家庭の記念日などに行います。ワインや日本酒なども、適温の環境下で長期熟成は可能ですが、一定期間を過ぎると熟成のピークを過ぎることに対し、泡盛は注ぎ足しによって酒を定期的に目覚めさせ、半永久的な熟成に耐えることが最大の特色と言えます。仕次ぎの配合は各家庭で異なることから、古酒は一族の味とも言え、家宝として親から子へ、代々受け継いでいくことが沖縄の文化です。

 沖縄には100年以上の長期熟成の古酒が多数存在し、文献によると300年以上熟成させた古酒も存在したとされていますが、戦争によってその多くは焼失しました。しかし、沖縄の人々は再び古酒を育てようと、仕次ぎ文化の再生を図っています。仕次ぎの年数が経過するほどに芳醇さが増し、舌触りがまろやかになる泡盛は、世代間の心の継承を象徴しており、工芸品と同様に「経年美化」していくお酒。玉川堂の銅器も長年のご使用によって色合いに深みを増し、光沢を湛えていくことから、「時と共に成長していく」という思想に親和性を感じました。沖縄は地域柄、世界平和と一族繁栄を願う意識が強い地域。沖縄県民にとっての無形文化遺産は、泡盛の「酒造り」だけでなく、「仕次ぎ」も含めた登録との認識が強く、仕次ぎ文化の存在が無形文化遺産登録を契機に、国内外へ広く認知されることを期待しています。

[第196号] 「趣味的工芸」で感じ合う

 「伝統的工芸品」とは、経済産業大臣が指定した工芸品を指し、次の5項目の条件を満たした工芸品が「伝統的工芸品」として指定されます。①日用品、②主要工程が手作業、③伝統的な技術(100年以上)、④伝統的な素材、⑤産地の形成(10工房以上)。制度開始から今年で50年を迎えた現在、全国で243品目が指定を受けており、都道府県別では、1位:東京都=22品目、2位:京都府・新潟県=17品目、4位:沖縄県=16品目、5位:愛知県=15品目、6位:石川県=10品目と続き、東京都が全国一の工芸産地です。燕市の「燕鎚起銅器」は1981年に指定を受け、燕三条地域では、1980年「三条仏壇(三条市)」、2009年「越後三条打刃物(三条市)」も指定を受けています。5項目の条件に満たない工芸品の多くは、経済産業省ではなく各都道府県の管轄の元、「的」の文字が外れた「伝統工芸品」制度によって全国1300以上の品目が指定を受け、その技術が継承されています。

 50年前、「伝統的工芸品」の指定が開始された背景には、全国各地で継承されてきた工芸技術を見直すという意味合いがあり、そこには2つの視点があります。1つは戦後復興に伴う機械化大量生産が急速に進む中で、日本社会における伝統工芸の価値を再認識させること。もう1つは、伝統工芸業界における安価大量生産型ビジネスへの警鐘です。高度経済成長期以降、観光地のお土産、企業・団体の記念品などの工芸品需要が高まり、産地問屋からは、質より量を求められました。結果、工芸技術を長年かけて習得するという長期的視点よりも、機械力などの導入による熟練技術に頼らない短期的視点に、業界全体がシフトし始めた時代でもあり、価値と技術の衰退への危機感が伝統的工芸品指定への起点となったのです。

 経済産業省「伝統的工芸品」全産地の生産額と職人数は、1983年(昭和58年)の約5,200億円をピークに現在は約800億円、職人数は1979年(昭和54年)の約29万人をピークに現在は約5万人と、市場規模は約6分の1に減少しています。特にバブル崩壊後の1990年代の約10年間の減少が著しく、この頃はリストラや倒産などが相次いだ時代でした。この時期に、工芸の本質的な価値に対してブランディングする視点を取り入れなかったことが、伝統工芸業界の衰退を決定付けたと言えます。にもかかわらず未だ、ブランディングの視点は十分に取り込めているとは言えず、経済産業省の統計によると、現在の職人の年齢構成は、60歳以上が約70%であり、後継者がいない、もしくは事業承継を考えていない事業所も約70%を占めていることから、15年後の市場規模はさらに半減する可能性があります。

 今、伝統工芸業界のあり方として、下請けや産地問屋といった旧態依然の流通体制を改め、直販体制の構築は急務となっています。バブル崩壊後、問屋への卸値と職人の年収が30年以上変わっていないケースも多く、まずは価格決定権を持ち、適正価格を設定していくことが、ブランディングの第1歩です。その上で、これからの伝統工芸のものづくりの考え方として、私は「趣味的工芸」を提唱します。これは私の造語であり、その基となる考え方は、「アーツアンドクラフツ運動(1887~)」の主導者・ウイリアムモリスと、「民藝運動(1925~)」の主導者・柳宗悦、両者の思想の組み合わせにあります。モリスは「幸福の秘密は、職人が日常生活の細部に関心を持つこと」と説き、職人は趣味を謳歌し、感性を磨くことが重要であると主張。一方、柳宗悦は、職人に感性は不要であるとし、手早く正確に、「無心」の境地で作業することが「健康の美」、つまり人の営みに寄り添う美しい器を作り上げると説いています。

 柳宗悦は、工芸を「貴族的工芸(超絶技巧)」「個人的工芸(作家)」「民衆的工芸(民藝)」「資本的工芸(機械化)」の4つに分類していますが、モリスの「趣味」と柳宗悦の「無心」を組み合わせた工芸が「趣味的工芸」です。和食、生花、日本茶、日本酒、コーヒー、ワインなど、趣味性の高いカテゴリーに特化して、職人自ら趣味を謳歌し、道具としての機能性を追求していく。そして、価格決定権を持ち、適正価格を追求していく生産管理能力も職人の重要な技量であり、より早くより精密な技術力を取得していくことで、「無心」の境地を極めていきます。工芸の本質とは「感じる」ことであり、地域への「感謝」、生活への「感心」、ものづくりへの「感性」によって、お客様の「感動」が生まれます。「趣味的工芸」を通じて、お客様と職人が「感じ合う」こと。この追求が、これからの工芸の未来を創り上げるものと思っています。

[第195号] 日本のおもてなしの精神が育んだ ハンドドリップコーヒー

 コーヒーの世界年間消費量は約900万トンです。これに対し、お茶は年間約600万トン。コーヒーは世界で最も消費されている嗜好飲料で、国別の消費比率は、EU25%、米国15%、ブラジル13%、日本・フィリピン・カナダ各4%と続き、欧米が圧倒的シェアを占めています。コーヒーの抽出方法は世界各国様々で、大別すると、①エスプレッソなどの「加圧法(粉を加圧する)」、②ドリップなどの「透過法(粉にお湯を注ぐ)」、③フレンチプレスなどの「浸漬法(粉をお湯で浸す)」に分類され、①加圧法と②透過法は、コーヒーマシンによる抽出が主流です。コーヒーポットを片手にじっくりと抽出する「ハンドドリップ」は、②透過法の一つであり、日本人にとってお馴染みの淹れ方ですが、他国ではあまり行われない抽出方法です。

 ハンドドリップは約250年前、フランス人によるコーヒーポットの開発を起源とし、その後ドイツを中心に確立された抽出方法です。しかしコーヒーマシンが普及して以降、主に日本がハンドドリップの文化を継承・発展させていき、ハンドドリップ=日本式のイメージが定着しました。日本で発展したことへの個人的な見解としては、茶道における「おもてなし」の精神が深く関係していると考えています。客人の前でお茶を点て、最高の1杯を差し出すために心を尽くし、お茶を飲む行為だけでなく、茶室のしつらえや器の美しさをも追求する。これは1970年〜80年代の喫茶店ブームにも通底していると考えており、内装や家具、そして、カップ一つ一つにもこだわり、マスターが注文を受けるたびに、ハンドドリップで一杯ずつ丁寧に淹れるというおもてなしが、日本人の心を捉えました。一杯のコーヒーを深く味わうために手間暇を惜しまず、様々な手順を忠実にこなす堅実的な国民性と日本人の美意識が、ハンドドリップの文化を発展させたのではないでしょうか。

 今ハンドドリップは中華圏でも大きな広がりを見せており、言わばコーヒー革命が起きています。中でも台湾での広がりは破竹の勢いであり、ハンドドリップで淹れるカフェが急増し、台湾茶を楽しむ茶芸館の軒数を上廻るという逆転現象が生じています。直近10年間でコーヒーの国内消費量は約3倍に増え、コーヒー消費の伸び率世界一は、台湾であるとも言われています。また、中国本土や香港でも同様のコーヒー革命が起きており、高品質のコーヒー(スペシャルティコーヒー)をハンドドリップで丁寧に淹れる抽出方法は、アジア圏のスタンダードとして定着しつつあります。その文化的な背景として、中国茶を急須で丁寧に淹れる風習が今もしっかりと根付いており、日本と同様、ハンドドリップは中華圏の方々の国民性に合った抽出方法と言えます。

 ハンドドリップはアメリカのコーヒーブランドも、着目するようになりました。「ブルーボトルコーヒー(本社・カリフォルニア)」は、日本の古き良き喫茶店文化に影響を受け、1杯づつハンドドリップでコーヒーを淹れるスタイルを日本国内の全店舗で導入。スタッフの技術と感性に委ねられ味覚にブレが生じやすいハンドドリップを、アメリカの大手コーヒーブランドがメニューに加えた時は、正直驚きました。さらに世界最大のコーヒーチェーン「スターバックス(本社・シアトル)」も、日本国内の一部店舗ながらバリスタを配置し、ハンドドリップのコーヒーを提供する試みを開始し、コーヒーマシンでは表現出来ない人の手技に委ねるコーヒー抽出に新たなコーヒー市場開拓を目指しています。ハンドドリップは、豆本来の味覚をダイレクトに味わえ、さらに日本の職人芸を彷彿とさせるパフォーマンスも魅力的であることから、訪日外国人からも高い評価を得ており、将来ハンドドリップが世界的に浸透する時代が到来するかもしれません。

 日本のコーヒー文化は世界的に見ても独自性が強く、ハンドドリップはその最たるものです。それ以外にも、カップの上にコーヒーバッグを乗せる「ドリップバッグコーヒー」、自販機で手軽に飲める「缶コーヒー」、夏場に需要が高まる「アイスコーヒー」、これらは基本的に日本人だけの飲み方であり、訪日外国人にとっては異色の光景です。私は海外出張の際は出来る限りカフェに立ち寄り、コーヒーの淹れ方と道具を注意深く見るようにしています。特に道具に関しては、素材・形状・機能など多種多彩のためその国の文化が如実に現れ、一杯のコーヒーにはその国の文化が凝縮され、その国で暮らす人々の営みが垣間見れます。コーヒーの歴史や文化を学び、あらためてコーヒーの淹れ方に着目してみると、コーヒーの味覚はより一層味わい深いものになるでしょう。

[第194号] 古代より社会発展の変革を担う銅

 銅は、パソコン・携帯電話・自動車・電力インフラなど、幅広い産業で使用されており、銅価格は世界経済の変調に敏感に反応するため、私たち銅を扱う産業や投資家の間では、「ドクターカッパー」とも呼んでいます。好景気には銅価格が上昇、不景気には銅価格が下落する傾向にあり、景気の先行きの判断材料となっていることが、ドクター・カッパーと言われる所以です。今年5月、銅は史上最高値を更新しましたが、その後は米金利の高止まり観測や中国経済の停滞懸念によって、やや下落傾向にあります。とはいえ、銅価格は1999年の1キロ=178円以降、中国経済の成長と共に急上昇し、現在は1キロ=1400円前後で推移しており、25年間で実に約10倍の価格上昇となっています。

 古代ローマ時代、銅の主な産出地は地中海のキプロス島(ラテン語 cuprum)であったことから、頭文字をとって銅の元素記号は「Cu」、銅の英語表記は「Copper」と称されました。銅は人類が初めて使用した金属であり、BC8000年頃から使用されていますが、本格的な使用はBC3000年頃からの「青銅器時代」です。銅に錫を約10%配合させた合金「青銅」が発明され、銅の強度が増したことから、武器や農工具などが開発され、軍事的優位性、農業生産性が格段に向上し、国家形成が進んでいきます。銅は古代文明を変革させた金属であり、最も重要な物資として重宝しました。

 銅の加工技術に飛躍的な進歩が見られたのは、古代中国・BC1700年頃です。祭司用に使用する酒器や食器などの青銅器が多数現存しており、形状や文様のデザインが秀逸かつ精巧に作られ、東京・南青山「根津美術館」所蔵の「双羊尊(そうようそん)」は特に秀逸な青銅器として知られ、国(文部科学省)の重要文化財に指定されています。そして、BC221年、始皇帝が中国史上初の統一帝国・秦を構築すると、器だけでなく立体物を中心に優れた銅製品が製作され、その代表作が始皇帝の「銅馬車」です。金属工芸において、史上最高傑作の銅製品と評する専門家も多く、私も異論の余地はありません。現在の銅加工技術を駆使しても再現は極めて困難で、世界の考古学史上、技術や構造が最も複雑であり、約2200年前になぜこれほど先進的な銅加工技術が存在したかについては、未だ謎に包まれています。

 銅の歴史における大転換期は、18世紀半ばにイギリスで始まった産業革命です。それまでは、主に装飾品や軍用品などに銅が使用されていましたが、蒸気機関の開発によってエンジンの部品などに銅が用いられ、電気・磁気誘導の開発によってモーターや電線などに銅が使用されると、銅の需要は劇的に増加しました。それに伴い世界中で銅鉱山の探索が始まりますが、この蒸気機関と電気の発明が鉱山開発にも大きな役割を果たし、世界の銅産出量と世界の経済発展は比例するようになります。江戸時代、銅の世界一の産出国は日本でしたが、次第に枯渇状態となり、その後イギリスが世界一となりましたが、約100年後には同じく産出量が減少。そして19世紀末にアメリカが世界一となり、アメリカの経済成長に大きな影響力を与えました。現在、銅の主要産出国は、南米や中国などが中心となっており、中でもチリが世界シェア約30%を占める世界一の産出国で、玉川堂製品の銅はチリ産を使用しています。

 地球温暖化を抑えるために、再生可能エネルギーや電気自動車(EV)の開発などが進められていますが、対策が進むほどにより多くの銅が必要となります。さらには、デジタル社会の心臓「半導体」にも大量の銅が使用され、パソコンや携帯電話の普及などによって、銅の使用量は右肩上がりに上昇しており、約30年後には地球上の銅は枯渇すると懸念されています。一方で、眼球に情報端末を付着させるなどの新しいデバイスが普及し、約30年後にはパソコンと携帯電話の普及率はほぼゼロになるとされ、大量の銅に頼らない時代が到来するとも予測されています。銅枯渇後の社会では、廃製品から銅を回収する「都市鉱山」や、銅に変わる新素材などで新たな社会の発展を築く、産業革命以上の大革新の到来が求められます。約1億年もの間、社会と共に成長し、今も私たちの暮らしの身近に存在する「銅」。あらためて、銅という素材を見つめ直す機会となっていただければ幸いです。

[第193号] 千利休の美意識を問う

 千利休。様々な書物を通し、その生き方が学ばれてきましたが、実像はあまり分かっていません。数少ない資料や美術品から分析された、それぞれの時代における千利休への空想が文献として膨大に伝承され、その積み重ねが今日の「千利休」像を作り上げたと言えます。織田信長・豊臣秀吉が中央政権を握っていた安土桃山時代(1573年〜1603年)、動乱の戦国時代が終結し、天下統一を図るための重要政策は、戦国時代より大ブームが興った「茶の湯」でした。国家予算に匹敵するほどの莫大な金額で茶道具の名品を収集し、戦で名を挙げた家臣に恩賞として贈呈するなど、茶の湯は政治基盤を強固にするために不可欠な存在でした。このような時代背景の中、信長と秀吉の「茶頭」として頭角を表したのが千利休です。茶の湯を背景とした政治経済において、絶大な影響力と求心力を発揮していくことになります。

 安土桃山時代は、天下統一の気運と新興大名や豪商の出現、盛んな貿易などを背景に、日本美術史上最も豪壮で華麗な「桃山文化」が誕生しました。わずか数十年の間に日本文化に大変革をもたらし、薩摩焼、有田焼、萩焼などの工芸もこの時代から始まり、現在の伝統工芸の礎を築きました。当時の茶会の多くは、書院造の広間などにおいて賑やかな宴席の中で行われ、家臣たちは権力のステータスとして茶道具の豪華さを競い合う、煌びやかな形が主流でした。これに対し、室町時代に生まれた「侘び茶」の進化を目指したのが千利休でした。人と人との心が直接触れ合い、お互いに自分自身を問う「直心(じきしん)の交わり」が茶会の本質であるという新たな思想を展開していきます。

 千利休は、自身の茶の湯の思想を凝縮させた茶室「待庵(たいあん)」を、京都の山崎にて建てました。わずか二畳という極限まで空間を切り詰め、茶道具は簡素化させましたが、特筆すべきは「にじり口」という60〜70cm四方の狭い出入口で、ここに利休の精神性が表現されています。例え身分の高い武士であっても、必ず頭を下げて通らなければならず、さらに、刀を帯同したまま入室することは出来ません。謙虚な気持ち無くして入室することは出来ないという、これまでの茶の湯とは一線を画すものであり、茶の湯の価値観や存在意義を大きく変えました。待庵は茶室の国宝指定3つの内、現存する国内最古の茶室であり、茶室の源流として今もその精神が受け継がれています。

 日本の茶碗の起源は、鎌倉時代に中国へ留学した僧侶が、抹茶と共に日本へ持ち帰った中国製「唐物」です。この世のものとは思えない美しさに衝撃を受けた権力者たちは、こぞって愛用するようになり、その価値は普遍的で、日本の茶碗の国宝8点のうち5点は唐物の指定です。一方、室町時代に移入された朝鮮半島の「高麗茶碗」は、ヒビ割れがあり、釉薬にはムラがあり、唐物とはタイプが異なるものでした。しかし、それを個性と捉えた新たな美意識が芽生え、高麗茶碗にも人気が集まり、美の基準は大きく変化していきます。そのような状況下、千利休は国産茶碗「和物」の開発を志し、京都の陶工・長次郎(現・楽家16代目)へ製作を依頼しました。一見いびつな形状ながらも、手にすっぽりと収まる柔らかな曲線美が特徴で、「楽茶碗」と称され、以降全国各地で和物茶碗の名品が次々と誕生していきます。

 茶の湯は文化の領域を超え、千利休は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に負けずと劣らぬ影響力を発揮するようになります。しかし、秀吉の政治における支配力と、千利休の茶の湯における支配力が衝突するようになり、秀吉によって切腹を命じられた千利休は、自ら命を絶ちました。一人の文化人の存在によって、ここまで大きく国の美意識が変化したことは、世界美術史においても稀なケースでしょう。空間、形状、色彩など、装飾性どころか美をも削ぎ落とし、削ぎ落とした末に何が残るか。その問い掛けが、千利休の美意識の全てに通じていきます。それは常識では捉えきれず、自分自身の生き方も問いながら探究を続けていくことで相通づるものが見えてくるものと考えています。千利休の美意識を問う。これからの日本のものづくりに、ますます不可欠な要素になっていくことでしょう。

[第192号] 日本人の美意識が溢れる伝統色

 日本の「伝統色」。色彩の美しさのみならず名称も美しく、日本が誇る伝統文化です。このような個性豊かな伝統色が生まれた背景としては、日本の風土と気候の多様な分布が挙げられます。南北に細長い日本は寒帯・温帯・亜熱帯の全てを備えており、面積の小さい一国でこれほど様々な風土を持っている国は珍しく、この独特な風土よって多種多様な植物が生息しています。日本人は四季折々の植物を通して、色に対する繊細な美意識を育み、伝統色の多くはこの植物の名前に由来して、美しい色と名称で表現されてきました。赤色系で例を挙げると、「撫子(なでしこ)」「紅梅(こうばい)」「茜(あかね)」などは、植物名に由来する代表的な伝統色です。

 日本で初めて色彩を取り入れたのは、603年、聖徳太子が制定した「冠位十二階」です。官位を12の等級に区別するため、中国の陰陽五行説による「青・赤・黄・白・黒」に「紫」を加え、六色で区別したことが起源とされ、以降、日本人の間に色彩へ対する意識が芽生えました。その後、日本の伝統色の基礎が築かれたのは平安時代です。華やかな色彩の衣装を重ね合わせた「襲(かさね)の色目」が流行したことから、色に対する日本人の意識が大きく変化し、それらの色には主に植物名に由来する名前が付けられました。室町時代に入ると侘び寂びの精神が重んじられ、華やかな色だけでなく枯れた渋みのある色をも好む傾向が生まれていきます。

 このように時代と共に継承されてきた伝統色は、江戸時代に入ると飛躍的な進化を遂げます。質素倹約を命じた「奢侈禁止令」が発布されると、派手な色の着物を着ることが禁じられ、青・茶・鼠の三系統の地味な色合いのみ着用が許されました。しかし、町人たちはその状況を逆手に取り、三系統の色の中に、微妙なトーンや色味の違いをそれぞれ100種類以上も見出し、世界に類を見ない色彩のバリエーションを構築。「江戸茶」「団十郎茶」「深川鼠」など、江戸らしい名称も生まれました。中でも青色系(藍色系)は、暖簾や風呂敷などにも多用されたことで独自の発展を遂げ、開国後の明治時代に入ると、日本の至る所に藍色が使用されたことから、海外の人々から「ジャパン・ブルー」とも称されました。この色は工芸品や浮世絵などにも多用され、欧州でジャポニスムが流行した時代、日本を象徴する伝統色として鮮烈に受け止められ、欧州人の心を動かしたのです。

 伝統工芸に関連する伝統色も、趣のある名称が多数存在します。「秘色(ひそく)」は、有田焼(佐賀県)を中心とした浅い緑色の青磁から採用された伝統色で、「神秘的」な美しさであることからこの名が付けられました。「呂色(ろいろ)」は、輪島塗(石川県)を中心とした黒漆の艶やかさを表現した伝統色で、呂色漆を使用し、呂色師と呼ばれる職人によって鏡面のような艶のある表面に仕上げる、漆塗り技術の最高峰の色です。「鉄色」は、南部鉄器(岩手県)を中心とした鉄器の深い青緑色を表現した伝統色で、鉄を頭文字とした「鉄紺(てっこん)」「鉄納戸(てつなんど)」など、鉄の微妙な色合いを表現した名称にも、日本人の美意識が感じ取れます。

 玉川堂を代表する着色(伝統色)は「紫金色(しきんしょく)」であり、深い藍色にうっすらと緑色が掛かった色彩で、大正時代、私の曽祖父・玉川堂四代目が名付けました。火炉で銅器を焼く作業を行っていた際、火炉に付いていた錫がたまたま銅器に付着し、そのまま着色作業を行ったところ錫の部分だけ異なった着色となったため、その後研究開発を進めた結果、世界無二の色として今に伝わっているものです。紫金色をはじめとする玉川堂の銅器の色は、長年のご使用と共に円熟味が増し、50年、100年の経年によって「経年美化」していきます。紫金色の色彩は、「紫」と「金」が織り成す「玉川堂の伝統色」へと美しく深まっていくのです。玉川堂ブランドコンセプトは「時と共に成長する。未来に価値を置く。」。銅器を使用することは、未来が良くなることを願うことであり、丁寧に「時」を重ねていく「生き方」を大切にすることでもあります。