[第191号] ルネサンス 〜挑戦と応戦〜

 ルネサンスとは「再生」を意味し、14世紀〜17世紀、イタリア・フィレンツェを中心とした、古代ギリシア・ローマの文化を復活させるための社会運動です。4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教化してから約1000年の間は、文化的な発展が少なく、いわゆる「中世の暗黒時代」と称された時代でした。そのような、神や教会中心の社会を終焉させ、古代における人間を中心とした社会「ヒューマニズム」を復活させることで、人間性と多様性に溢れた文化の「再生」を目指したのがルネサンス時代です。契機となった要因の一つに、14世紀に発生したペストによる史上最悪のパンデミックが挙げられます。欧州人の約3分の1が命を落としたとされ、人々は死と隣り合わせの危機感の中、古代の歴史を学び、その歴史を再認識することで、当時信仰されていたギリシャの神々の世界観に、新たな社会への活路を見出そうとしたのです。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」、ミケランジェロ「ダビデ像」は、ルネサンス期を代表する作品であり、当時製作された作品は「ルネサンス美術」と称されます。この2つの作品は、世界美術史上最高傑作の絵画と彫刻と言われ、16世紀初頭、ほぼ同時期に製作された作品です。「モナ・リザ」は、表情の美しさや謎めいた微笑みに多くの人々が魅了され、従来にない人物の配置や、スフマート技法(輪郭を柔らかくぼかす筆使い)は、後世の絵画技法に大きな影響を与えました。また、鍛え抜かれた若者の肉体美を体現する「ダビデ像」は男性の完全美、同じくルネサンス美術のボッティチェリ「ヴィーナス」は女性の完全美とされ、以降、美術の世界における肉体美の基準となっています。

 ルネサンスの影響は美術に留まらず、建築、音楽、科学など、様々な分野においても大きな革新が興った時代で、中でも飛躍的な発展を遂げたのは建築です。古代において建築とは、「人体と同様に調和したものであるべき」と考えられ、神々や宇宙と繋がっている人体には、最も理想的な比率「黄金比(1対1.618)」が隠されているとされました。この黄金比をより探究し、人間の営みに必要な新たな機能を備えたのが「ルネサンス建築」です。シンメトリー(左右対称)とバランス(調和)が重視され、全体的にシンプルで合理的な構造であり、中でも「クーポラ(丸屋根=ドーム形)」はルネサンス建築の最大の特徴です。現存されているルネサンス建築の多くは、世界遺産をはじめとする建造物保存対象として、今に受け継がれています。

 このようにルネサンスは、史上稀に見る文明の転換期ですが、それ以前の欧州の美術や建築は、暗黒の時代を象徴するような表現方法が採用されていました。神と教会の権威は絶対的であり、「人生(現世)は苦しみの世界である」と考えられていたため、絵画や彫刻などの美術表現においては、キリストは悲しみに顔をゆがめ、マリアは目を伏せ、使徒たちは厳しい表情を浮かべるなど、悲壮感溢れる作品ばかりでした。そして、建築は神のための建築構造が研究され、使用されている家具なども機能的ではありませんでした。当時のキリスト教では、禁欲的な生活を送り、その苦しみを耐えた者だけが死後、天国へ行けると信じられていたのです。しかし、そんな死後の世界よりも現世の世界における生き方を重視する機運が生まれたのが、ペストによるパンデミックでした。人々がペストによる死に際し、教職者や家族が立ち会うこともなく孤独に埋葬されていく中で、神や教会の権力は低下し、人々の人生観は劇的に変化し、再生を遂げていったのです。

 「挑戦とは、社会環境の激変によって存亡に関わる試練に直面することであり、応戦とは、この困難な課題に対して、創造的に対応して脅威を乗り越えることである。文明とは、この挑戦に対する応戦によって誕生していく」。イギリスの歴史学者・アーノルド・トインビーが定義した「挑戦と応戦の法則」です。人々はペストを人類への「挑戦」と捉え、己を信じ、今を生き抜くことで「応戦」したのです。ルネサンスによって人々は、禁欲的な生活に終止符を打ち、人間らしく生きるための知見と美的感性を育み、生まれ変わったかのように「美」の世界を表現することで、人間としての再生を試みました。社会環境の激変は、本質や生き方について考える契機となり、再生への大きな原動力となります。「本質」とは何か。「生き方」とは何か。アフターコロナという「応戦」の時代へ突入した現在、あらためてルネサンスを見つめ直す時であると考えています。

[第190号] 世界に誇れる玉露のUMAMI

本日5月1日は八十八夜。茶畑では若葉を摘む日本の原風景が見られる時期で、これから本格的に新茶シーズンが到来します。厳しい冬の寒さを越え、初夏の陽射しの中、いっせいに芽吹く新芽は瑞々しい生命力に溢れ、鮮度の高い香りを存分に楽しめる「煎茶」が最も美味しい季節です。一方、新茶から数ヶ月以上熟成させることで飲み頃を迎える「玉露」は、店舗によっては新茶を取り扱わないところもあるため、入手は限定されます。しかし、玉露こそ、あえて新茶シーズンに味わいたいお茶です。未熟ながらもフレッシュな新茶の味わいを脳裏に残しつつ、円熟味を増した秋の熟成感を味わう。このように、「時」の移ろいを感じることも玉露の醍醐味であり、一度はお試しいただきたい玉露の楽しみ方です。

八女(福岡)・宇治(京都)・朝比奈(静岡)は、玉露の三大産地として知られ、特に上質な玉露が生産される地域です。煎茶などと比較し、手間も技術力も有することから高値で販売され、日本茶業界における玉露の生産割合は、約0.3%と極めて少なく、生産量は減少傾向にあります。しかし、芳醇な香りと余韻の長さ、凝縮された旨味など、色・香り・味などの様々な要素で他の日本茶とは一線を画し、国内外のお茶愛好家から絶大な支持を得ています。玉露はテロワール(気候や土壌による特徴)が反映されやすく、さらには、生産者によっても個性が反映されやすい、いわば芸術作品。ファミリービジネスで至高の一滴を追求するものづくりの姿勢は、フランスのワイン王・ブルゴーニュの生産者を彷彿とさせるものがあります。

煎茶は陽をたっぷり浴びて栽培されますが、玉露は収穫前の数十日間、畑一面に稲わらや黒い布などを覆い被せ、日差しを遮った状態で育てる「被覆(ひふく)栽培」が行われます。日差しを遮断することで、新芽に旨味成分である「テアニン」がたっぷりと蓄えられ、「覆い香(おおいか)」と言われる玉露独自の芳醇な香りと旨味が凝縮した茶葉に仕上がります。一方で、被覆栽培によってお茶の苦味成分「カテキン」は抑えられ、苦味や渋味はほとんど感じられません。テアニンは、リラックス効果の高い栄養素であることで知られていますが、玉露のテアニン含有量は、他の日本茶と比較しても突出して多く、休息のひとときに最適なお茶とも言えます。

玉露の素材力を最大限に引き出すためにも、淹れ方はとても重要です。お湯の温度は50度前後で、他の日本茶と比較するとかなり低いため、慣れるまでは温度計の使用をお勧めします。沸騰湯を使用した場合、玉露の特徴である旨みが抽出されず、渋みや苦味が強調されるため厳禁です。玉川堂製の急須の場合、個人差はありますが、お湯が55度以上になると、銅器(胴体)は熱くて素手で触れることが出来なくなるため、この場合、お湯の温度は熱過ぎるというサインとなります(持ち手はツルを巻いており、沸騰湯でも持てます)。胴体を素手で持てるくらいの温度が適温ですので、玉露を淹れる際の参考としてください。

玉露の魅力をさらに引き出すために、ティーペアリングは欠かせません。青海苔のような風味を持つ玉露の旨みは、魚介の旨みに味覚の共通項があり、甘い物では、和菓子以外ですとチョコレートとの相性が良く、玉露とチョコが渾然一体となり、とろけゆく食感が楽しめます。そして、玉露の茶葉は捨てずに、塩や薄口醤油を軽く掛けて食べると美味で、日本酒はもちろんのこと、白ワイン(リースリングなど)とのペアリングもお勧めです。玉露の味覚は主張が強いため、ペアリングの向き不向きが生じやすいお茶ですが、その分、合致した時の感動は大きく、日本茶の最高峰・玉露の「UMAMI(旨み)」は日本が世界に誇る食文化です。知れば知るほどその魅力に取り憑かれる、玉露の可能性は無限大です。玉露のUMAMIを存分に味わい、日本茶との新たな出会いと発見を体感してみてください。

[第189号] 時を超えて想いを伝えるホールマーク

富の象徴として、あるいは時代様式を映す鏡として、洗練を極めたヨーロッパの銀器。ヨーロッパにおいて金属工芸は工芸の本流を成し、中でも銀器職人は花形職業とされましたが、本格的な銀器の生産は17世紀フランスから始まります。それは、絶対的権力を盾に芸術王国を築き上げたルイ14世の時代であり、芸術の中心地がローマからパリへと移行した時代でもあります。それまで手掴みで食事をしていたフランス人の間には銀製カトラリーを使用する風習が広がり、また、コーヒー・紅茶などの新たな嗜好品が普及したことから、銀製ポットの生産も本格化しました。当時、銀器を使用できるのは貴族が中心でしたが、食文化の変化も伴い、銀器は次第にヨーロッパ全域へと広がっていったのです。

ヨーロッパの貴族に最も需要の高かった銀器は、料理を彩る銀食器です。晩餐会における絢爛豪華なテーブルコーディネートは、地位と権力を表すステータスでした。一方で、銀食器を使用していたもう一つの理由は、毒殺の防止です。当時、王位継承者に対する毒殺が度々発生していたのですが、料理に青酸カリやヒ素化合物などの毒が混入した場合、瞬時に銀器に黒ずみが発生するため、その異変をいち早く察知できることから、暗殺防止用の器としても重宝されました。銀食器の使用は自身のステータスを表すためだけでなく、晩餐会では相手方に安心感を与えるための、おもてなしの意味合いもあったのです。

フランス革命後(18世紀末以降)、ヨーロッパの多くの地域で貴族体制が崩壊すると、貴重な財として継承されてきた銀器は溶かされたため、当時の銀器はあまり現存していません。当時は職人技よりも、銀の貴金属としての価値に重きが置かれていたのです。そんな中でイギリスでは、王権と貴族制度が一貫して継承されており、銀器は家紋を入れて代々大切に継承されてきたため、当時が偲ばれる貴重な銀器が多数現存しています。またイギリスでは、貴族のみならず産業革命によって富を得た新興階級の実業家たちも銀器をこぞって入手しており、それらの需要に対してイギリスの銀器職人が高いレベルで技術を競い合っていたことも、高品質な銀器が豊富に現存している要因となっています。

ヨーロッパ銀器のブランディングの特徴として、古くは4世紀の東ローマ帝国まで遡る「ホールマーク」制度が挙げられます。ホールマークとは銀器に打つ刻印のことで、誰がいつ製作したか、刻印を見れば一眼で判別できる情報と言えます。イギリスのホールマークは14世紀から法制化され、欧州の他国に比べて違反者への罰則を含め厳格に運用されてきたことが、銀器王国・イギリスの礎となっています。イギリス銀器には主に5つの刻印が打刻されており、①工房名または職人名 ②銀の純度(92.5%以上) ③鑑定場所 ④鑑定年 ⑤徴税確認が判別できるようになっています。これらのホールマークを識別するために、刻印の内容を網羅した書籍「ホールマークガイド」が販売されており、世界の銀器愛好家の必須本となっています。

ホールマークから読み解く年代や職人などの来歴から、当時の時代背景や生活風習などを想像することが、アンティークシルバーの魅力。玉川堂も次の100年を見据え、創業200周年事業の一環として、2016年4月製作分より「玉川堂ホールマーク」を導入しました。それまで製品には、屋号の「玉川堂」のみの打刻でしたが、それに加えて製作年の「干支」、制作を担当した「職人の名前の一文字」も打刻し、いつ、誰が製作したのかを一目で判別できるようにしました。お客様のもとへ旅立った銅器は、時に修理品として再び玉川堂へ戻ることもあります。当時の製作担当の職人が分かることで、修理の際の大切な情報として活かすことができ、ホールマークは時を超えて職人の想いも伝え、現在の職人と未来の職人の心の架け橋となります。「打つ。時を打つ。」の玉川堂ブランドメッセージには、ホールマークと共に世代を超えて銅器を受け継いで欲しいという願いも込めているのです。

[第188号] 本阿弥光悦に工芸の原点を観る

本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ・1558〜1637)。どのような人物なのか、今一つ判然としない方も多いのではないでしょうか。文献が少ない上に、あまりに多彩な芸術活動を行ったことから、その生涯の多くは謎に包まれています。陶器・漆器・書の作品は、国宝や重要文化財指定を受け、中でも日本における茶碗の国宝指定2点のうち1点は本阿弥光悦の作であり、二刀流ならぬ三刀流のマルチアーティスト。日本を代表する工芸家です。東京国立博物館で開催中の「本阿弥光悦の大宇宙」をはじめ、NHK「日曜美術館」、新潮社「芸術新潮」など、ここ最近、芸術系の多くのメディアが本阿弥光悦の特集を組み、業界内では時の人として、あらためてその美的感性を見直す機運が高まっています。

本阿弥光悦が工芸の道を志したのは桃山時代。古い習慣に捉われない自由な発想で政治経済を動かした織田信長と豊臣秀吉が、中央政権のトップに君臨していた時代であり、美術工芸の世界も、そのトップ2名の意向が反映された前衛的なものづくりが行われました。日本美術史上、最も絢爛豪華な作品が輩出された時代であり、通称「桃山文化」または「桃山美術」と呼ばれています。京都で贅を尽くした高級品を求める趣味人と、それに応える京都の一流の職人によって、伝統工芸の技術は格段に向上。さらに、京焼・清水焼をはじめとする様々な伝統工芸品が京都で誕生した時代でもあり、今日の日本の伝統工芸の礎を築きました。この自由な風潮の時代に、自由な発想が受け入れられた世の中だからこそ、時代の寵児・本阿弥光悦が頭角を表したと言えます。

1615年、豊臣家は徳川家康によって滅ぼされ、桃山文化は終焉を迎えます。しかし、家康より工芸家として一目置かれていた本阿弥光悦は、京都北部・鷹峯の広大な土地を拝領し、そこに様々な分野の工芸家を移住させ、50軒以上の工房が軒を連ねる芸術村「光悦村」を創設します。本阿弥光悦はアートディレクターとして村のマネジメントを行い、職人の個性を重んじた自由な発想で工芸品を製作させ、新時代を切り拓く作品を次々と生み出していきます。中でも特筆すべきは「金継ぎ」の開発です。ひび割れした茶碗は失敗作として破棄せず、傷の補修を一つの文様として器の美しい景色と見立て、工芸としての価値を見出しました。以降、金継ぎは単なる器の修復にとどまらず、工芸の新たな美として鑑賞する風習が生まれたのです。

 江戸初期に誕生した「琳派」は、本阿弥光悦と俵屋宗達を祖とする流派です。型にはまらず自由を尊重する本阿弥光悦から、流派というイメージは湧きませんが、日本画の最大流派である「狩野派」のように、血縁や師弟関係による技術継承は行われていません。後世の絵師たちが先達の絵師に習い、その様式が途切れることなく自然発生的に数百年以上も継承され、その美意識の繋がりから、後世になって「琳派」という名称が使用されました。琳派は国内に留まらず西洋美術にも大きな影響を与え、「接吻」で有名なウィーンの巨匠・クリムトは、琳派の黄金様式に影響を受けた画家です。父が金属工芸の職人の影響もあり、クリムトは日本の伝統技法・金箔を学び、琳派の金箔を生かした絵画を次々と輩出。「琳派」に分類される代表的な外国人と言えます。

岡倉天心と共に東京美術学校(現:東京藝術大学)設立に尽力したフェノロサ(米国)は、「日本画」の名称を初めて使用した人物であり、琳派研究の先駆者でもあります。本阿弥光悦を日本最高の芸術家と称え、日本の美の方向を決定付けた人物と評し、その功績を日本人へ説いたことが、今日の「本阿弥光悦」像を創り上げました。東京国立博物館「本阿弥光悦の大宇宙」では、「船橋蒔絵硯箱(国宝)」を筆頭に代表作が展示され、様々な工芸素材、様々な美意識が表現され、とても同一人物の展覧会とは思えない多彩な作品群が並びます。しかし、深く観察するほどに同一人物という共通項が浮かんでくるという魔力。本阿弥光悦を見つめ直すことは、工芸の原点を見つめ直すことにも繋がります。人間が持つ本質的な美への希求と創造性を、工芸の将来に拓くために、その審美眼は後世にしっかりと伝えていきたいと思っています。

[第187号] 台湾茶の香りを聞く

世界のお茶の起源は約4700年前(紀元前約2700年)、中国雲南省・四川省周辺での茶栽培とされ、中国で広く茶栽培が行われたのは唐時代(618〜907年)以降です。日本では平安時代初期(810年頃)、遣唐使によってお茶の種が伝わったことが起源とされ、茶栽培が広く浸透したのは鎌倉時代後期(14世紀)以降です。そして、台湾では約230年前、台湾の対岸である中国・福建省より苗木が輸入されたことが起源とされ、国史の関係上、中国や日本と比較するとかなり後発ですが、1970年代以降、台湾内需の増加と共に茶産業は飛躍的な発展を遂げ、今や世界に冠たるお茶王国として君臨しています。

お茶は、①緑茶・②白茶・③青茶(烏龍茶)・④黄茶・⑤紅茶・⑥黒茶(プーアル茶)の6種類に大別されますが、もとは全て同じ茶葉であり、発酵度合によって種類が分けられます。不発酵の①緑茶から、完全発酵の⑤紅茶の順に発酵度合が強まり、⑥黒茶のみ微生物を利用した後発酵となります。台湾茶の多くは半発酵の③青茶であり、中でも「凍頂烏龍」「東方美人」「文山包種(ぶんさんほうしゅ)」「木柵鉄観音(もくさくてっかんのん)」は、台湾4大銘茶と称されますが、この4種の中でも、発酵度低め(15〜20%)の文山包種は緑茶の香りに近く、逆に発酵度高め(70〜80%)の東方美人は紅茶の香りに近いなど、それぞれにタイプが異なります。台湾茶の全体像を理解するためには、まずはこの台湾4大銘茶から飲み始めることをお勧めいたします。

そして、さらに台湾茶の奥深さを味わうためには、標高1000m以上の茶畑で栽培された「高山茶」の存在が欠かせません。台湾には南北に連なる山脈があり、「阿里山(ありさん)」を筆頭に、「杉林渓(さんりんけい)」「梨山(りさん)」の各産地で栽培された高山茶は、台湾3大高山茶と称され、台湾茶における地域ブランドの代表格です。年中雲霧に覆われ、昼夜の寒暖差の激しい環境で栽培された茶葉は成長が緩やかとなり、養分をたっぷりと蓄えることから、標高が高くなるほど香りも高くなる傾向にあります。高山茶の香りは「高山気」と称され、ズズッと空気を含ませるようにすすると、高山茶特有の香りが鼻から頭へと抜けるように、五感を刺激します。それはまさに、高地に咲く花のように甘い香り、高原の空気のように澄み切った味わい。そして、長くいつまでも続く余韻に、心と身体が解き放たれるような感覚を覚えます。

日本茶は蒸す製法で「旨味」を重視することに対し、中国茶・台湾茶は炒める製法で「香り」を重視します。台湾茶の世界では、香りを楽しむことを「香りを聞く」と表現し、専用の杯「聞香杯(もんこうはい)」という茶器があります。1970年代に開発された台湾発祥の茶器で、筒状の縦長のため、香りが立ち上がりやすく、香りをダイレクトに聞けることから、台湾茶を楽しむための道具として必需品です。日本でも「香りを聞く」風習があり、香道の世界では、香木の香りを聞くことを「聞香」と称し、また、日本酒の香りを聞く「利(聞)酒」は、広く知られている名称です。これらは香りを嗅ぐこととは異なり、心を傾けて香りを聞き、心の中でその香りをゆっくり味わうことを意味します。

日本の「茶道」を参考とし、1970年代、台湾では「茶藝」という用語が生まれました。形式や流派に捉われず、自分好みのお茶の道具を揃え、自分好みのお茶の淹れ方で香りを聞くことを目的としており、店主好みの淹れ方で香りを聞くカフェ「茶藝館」も次々と開業しました。玉川堂では月1~2回、終業後にお茶会(茶藝会)を行なっています。中国や台湾出張の際に購入した茶葉を使用し、銅器だけでなく、様々な素材の茶器を使用する「香りを聞く会」です。茶器の形状や素材の違いによっても、香りの聞こえ方が変わり、毎回新しい発見があります。心を癒す香りと、舌から広がる深い味覚の世界に身を委ねると、新たな自分との出会いが生まれてくるように思えます。

[第186号] 人間の美のあり方を問う

「生活に必要なものこそ美しくあるべき」。芸術と生活の統一化を理念に掲げ、「アーツ・アンド・クラフツ運動」を展開した近代デザインの父・ウィリアムモリス。産業革命によって機械化大量生産、大量消費の時代へと移行した19世紀イギリスにおいて、経済は飛躍的な発展を遂げる一方、安価な粗悪品が市場に溢れ、人々は精神的な豊かさを失いつつありました。職を失った職人たちは機械工場での労働を余儀なくされていたことから、モリスは「真の芸術とは、人間が労働に対する喜びを表現することである」とし、職人の手仕事から生まれる自由な発想、つまり、職人の人生経験から生まれる感性こそが美を生む源泉であり、人々の生活を豊かにすると説きました。

アーツ・アンド・クラフツ運動から約50年後、日本でも工業化が進み、日本各地の手仕事が失われつつある時代に、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らした柳宗悦は「民藝運動」を展開し、日常雑器=民衆的工藝品 (民藝)を通して、日常の暮らしに宿る美しさを追究します。宗悦は、長い年月をかけて多くの人々によって機能性が追求された結果、ようやく辿り着いた形状を「用の美」と表現。それを、無駄や迷いのない手早さで、最大限の数量を作り上げることが真の職人であり、「無心で作ることによって、本当に美しいものが生まれる」とし、そのような器に対して、「正常な美」「健康の美」と表現しました。職人に自由な発想や感性は不要であるとし、「無心」こそが美を生む源泉であると説きました。

アーツ・アンド・クラフツ運動も民藝運動も、その根底には、産業革命によって物質的な豊かさを得た反面、精神的な豊かさを失った近代社会への抗議活動であり、「人間の美のあり方を問う」運動であるという共通項があります。しかし、アーツ・アンド・クラフツの直訳は「芸術と工芸」であるのに対し、民藝は「民衆的工藝」であることからも、両者の思想は異なります。つまり、工芸の作り手はアーティストを目指すべきか、それとも職人を目指すべきかの相違点があり、前者は個性を最大限に表現する立場を取ることに対し、後者には個性の表現は求めない立場を取っています。しかし、テクノロジーの進化によって作り手のあり方も変化しており、根底は職人でありつつも、独自の感性に根付いた個性、すなわちアーティスト目線も持ち合わせる必要があります。昔、工芸は生活必需品であり、生活を便利にするための道具でしたが、今は、職人自らの目で美を見つけ、その美意識を道具へ表現する時代です。

私は、両者の思想を取り入れていくことが必要であると考えています。共通の思想「人間の美のあり方を問う」とは、「職人の生き方を問う」ことに繋がります。例えば、急須の感触や心地という感受性の追求、注ぎ口から流れる湯の細い軸跡の美しさの追求など、お茶を淹れて飲む行為から享受する豊かさを、どう表現するか。職人とは生活を豊かにし、美しく生きるための「新しい生き方の提案」を行うという役割があり、後世に「美しい生き方を繋ぐ(時を繋ぐ)」ことが私たち玉川堂の使命です。銅器はお客様から愛着を持ってご使用されてこそ、美しくなります。そのためには職人の技術と感性の両面の表現力が求められ、お客様と職人の距離を縮める流通体制の変革も不可欠であり、それが私たちが直販を貫く理由です。「幸福の秘密は、職人が日常生活の細部に関心を持つこと。工芸は私たちの休息を豊かなものにする(モリス)」、「器と人との相愛の中に、工藝の美が生まれる(宗悦)」。両者の言葉に、銅器の未来、工芸の未来があるように思えます。

玉川堂ブランドメッセージ「打つ。時を打つ。」 ブラントテーマ「時」 ブランドコンセプト「時と共に成長する。未来に価値を置く。」 玉川堂ブランドフィロソフィー「流行に応えることは、私たちでなくても出来る。生き方を問うことは、私たちだから出来る。」。これらを総称して玉川堂ブランド体系(理念体系)とし、玉川堂の存在意義と価値観を掲げました。「時」と「生き方」には、職人と銅器、銅器とお客様、お客様と職人の関係を表しています。「時」とは何か。「生き方」とは何か。玉川堂はこの問いを胸に、お客様へ「新しい生き方の提案」、そして「美しい生き方を繋ぐ」ことを使命に、両者の共通の思想である「人間の美のあり方を問う」ものづくりを行っていきたいと、心新たにしております。

 

玉川堂 笄 KOGAI 新店舗OPENのお知らせ

3月10日(日)、表参道駅から歩いて10分ほどの路地の奥に、玉川堂の新しいお店がオープンします。店名の「笄(こうがい)」とは、この地域の旧町名であり、古くは女性のかんざしの一種で、金工師によって制作されていた工芸品でもあります。同じ金工品としての縁を店名とした「玉川堂 笄 KOGAI」では、玉川堂の銅器を中心に、木工、染織、漆器、陶磁、硝子、金工など、12の工芸品をセレクト。
店内には椅子やテーブルが置いてあり、工芸品が溶け込む空間で、道具への思いを語りあっても良いし、ただ座って静かに見るだけでも良い、待ち合わせをしてもいいし、ふと思い立ったら立ち寄れる、そんな場所に作り上げました。
天気の良いお散歩日和に、ぜひお立ち寄りください。

《取扱作家・取扱メーカー》

我戶幹男商店   山中塗
KiKU 竹俣勇壱  金工
木戶優紀子    九谷焼
健太郎窯     唐津焼
鈴木盛久工房   南部鉄器
瀬沼健太郎    硝子
つちや織物所   染織
畑萬陶苑     伊万里鍋島焼
ふじい製作所   木工
松本郁美     陶磁器
マルナオ     木工
村上慶子     染織

《店舗情報》
玉川堂 笄 KOGAI
〒106-0031 東京都港区西麻布2丁目18-10
Tel/Fax: 03-6450-6370
E-mail: kogai@gyokusendo.com
営業時間: 水・木・土・日 11:00〜18:30/金 12:00〜19:30/月・火 店休日
※ 3月11日(月)・12日(火)は、店休日となります。

NHKワールド「Japanology Plus」特集放送のお知らせ

NHKワールドの取材番組放映のお知らせです。ラジオパーソナリティおよび音楽評論家のピーター・バラカンさんに、弊社の国際企画担当マシュー・ヘッドランドを取材いただいた特集版が放映されます。工場見学、製作体験、マシューへのインタビューなど、ピーター・バラカンさんの視点で玉川堂をご紹介頂いておりますので、ぜひ下記にてご覧ください。

《放送予定》
3月7日(木) 国際放送(NHKワールド オンライン)
3月12日(火) 国内放送(BS)
詳しくはこちらからご確認ください。

ニューヨークタイムス紙の掲載のお知らせ

2月14日のバレンタインデーに、ニューヨークータイムス紙の国際版に玉川堂の記事が掲載されました。7代目から作り始めた酒器を中心に、玉川堂の歴史や職人について取材頂いています。紙面はオンラインでも見ることができますので、ご興味ある方はぜひご覧ください。こちらからご覧いただけます。

価格改定のお知らせ

平素より格別のご愛顧を賜り厚く御礼申し上げます。

玉川堂では、今後も鎚起銅器の技術の継承・向上、そして職人の育成を続けるため、下記の通り価格改定を実施いたします。
ご検討中の製品がある方、またそれぞれの製品の価格につきましては、燕本店・銀座店までお問い合わせくださいませ。

ご理解と変わらぬご愛顧を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

《価格改定日》
令和6年2月1日
※現行価格での販売は、1月の承り分までといたします。

《お問い合わせ》
玉川堂 燕本店
0256-62-2015/info@gyokusendo.com
玉川堂 銀座店
03-6264-5153/ginza@gyokusendo.com