[第196号] 「趣味的工芸」で感じ合う

 「伝統的工芸品」とは、経済産業大臣が指定した工芸品を指し、次の5項目の条件を満たした工芸品が「伝統的工芸品」として指定されます。①日用品、②主要工程が手作業、③伝統的な技術(100年以上)、④伝統的な素材、⑤産地の形成(10工房以上)。制度開始から今年で50年を迎えた現在、全国で243品目が指定を受けており、都道府県別では、1位:東京都=22品目、2位:京都府・新潟県=17品目、4位:沖縄県=16品目、5位:愛知県=15品目、6位:石川県=10品目と続き、東京都が全国一の工芸産地です。燕市の「燕鎚起銅器」は1981年に指定を受け、燕三条地域では、1980年「三条仏壇(三条市)」、2009年「越後三条打刃物(三条市)」も指定を受けています。5項目の条件に満たない工芸品の多くは、経済産業省ではなく各都道府県の管轄の元、「的」の文字が外れた「伝統工芸品」制度によって全国1300以上の品目が指定を受け、その技術が継承されています。

 50年前、「伝統的工芸品」の指定が開始された背景には、全国各地で継承されてきた工芸技術を見直すという意味合いがあり、そこには2つの視点があります。1つは戦後復興に伴う機械化大量生産が急速に進む中で、日本社会における伝統工芸の価値を再認識させること。もう1つは、伝統工芸業界における安価大量生産型ビジネスへの警鐘です。高度経済成長期以降、観光地のお土産、企業・団体の記念品などの工芸品需要が高まり、産地問屋からは、質より量を求められました。結果、工芸技術を長年かけて習得するという長期的視点よりも、機械力などの導入による熟練技術に頼らない短期的視点に、業界全体がシフトし始めた時代でもあり、価値と技術の衰退への危機感が伝統的工芸品指定への起点となったのです。

 経済産業省「伝統的工芸品」全産地の生産額と職人数は、1983年(昭和58年)の約5,200億円をピークに現在は約800億円、職人数は1979年(昭和54年)の約29万人をピークに現在は約5万人と、市場規模は約6分の1に減少しています。特にバブル崩壊後の1990年代の約10年間の減少が著しく、この頃はリストラや倒産などが相次いだ時代でした。この時期に、工芸の本質的な価値に対してブランディングする視点を取り入れなかったことが、伝統工芸業界の衰退を決定付けたと言えます。にもかかわらず未だ、ブランディングの視点は十分に取り込めているとは言えず、経済産業省の統計によると、現在の職人の年齢構成は、60歳以上が約70%であり、後継者がいない、もしくは事業承継を考えていない事業所も約70%を占めていることから、15年後の市場規模はさらに半減する可能性があります。

 今、伝統工芸業界のあり方として、下請けや産地問屋といった旧態依然の流通体制を改め、直販体制の構築は急務となっています。バブル崩壊後、問屋への卸値と職人の年収が30年以上変わっていないケースも多く、まずは価格決定権を持ち、適正価格を設定していくことが、ブランディングの第1歩です。その上で、これからの伝統工芸のものづくりの考え方として、私は「趣味的工芸」を提唱します。これは私の造語であり、その基となる考え方は、「アーツアンドクラフツ運動(1887~)」の主導者・ウイリアムモリスと、「民藝運動(1925~)」の主導者・柳宗悦、両者の思想の組み合わせにあります。モリスは「幸福の秘密は、職人が日常生活の細部に関心を持つこと」と説き、職人は趣味を謳歌し、感性を磨くことが重要であると主張。一方、柳宗悦は、職人に感性は不要であるとし、手早く正確に、「無心」の境地で作業することが「健康の美」、つまり人の営みに寄り添う美しい器を作り上げると説いています。

 柳宗悦は、工芸を「貴族的工芸(超絶技巧)」「個人的工芸(作家)」「民衆的工芸(民藝)」「資本的工芸(機械化)」の4つに分類していますが、モリスの「趣味」と柳宗悦の「無心」を組み合わせた工芸が「趣味的工芸」です。和食、生花、日本茶、日本酒、コーヒー、ワインなど、趣味性の高いカテゴリーに特化して、職人自ら趣味を謳歌し、道具としての機能性を追求していく。そして、価格決定権を持ち、適正価格を追求していく生産管理能力も職人の重要な技量であり、より早くより精密な技術力を取得していくことで、「無心」の境地を極めていきます。工芸の本質とは「感じる」ことであり、地域への「感謝」、生活への「感心」、ものづくりへの「感性」によって、お客様の「感動」が生まれます。「趣味的工芸」を通じて、お客様と職人が「感じ合う」こと。この追求が、これからの工芸の未来を創り上げるものと思っています。