[第193号] 千利休の美意識を問う

 千利休。様々な書物を通し、その生き方が学ばれてきましたが、実像はあまり分かっていません。数少ない資料や美術品から分析された、それぞれの時代における千利休への空想が文献として膨大に伝承され、その積み重ねが今日の「千利休」像を作り上げたと言えます。織田信長・豊臣秀吉が中央政権を握っていた安土桃山時代(1573年〜1603年)、動乱の戦国時代が終結し、天下統一を図るための重要政策は、戦国時代より大ブームが興った「茶の湯」でした。国家予算に匹敵するほどの莫大な金額で茶道具の名品を収集し、戦で名を挙げた家臣に恩賞として贈呈するなど、茶の湯は政治基盤を強固にするために不可欠な存在でした。このような時代背景の中、信長と秀吉の「茶頭」として頭角を表したのが千利休です。茶の湯を背景とした政治経済において、絶大な影響力と求心力を発揮していくことになります。

 安土桃山時代は、天下統一の気運と新興大名や豪商の出現、盛んな貿易などを背景に、日本美術史上最も豪壮で華麗な「桃山文化」が誕生しました。わずか数十年の間に日本文化に大変革をもたらし、薩摩焼、有田焼、萩焼などの工芸もこの時代から始まり、現在の伝統工芸の礎を築きました。当時の茶会の多くは、書院造の広間などにおいて賑やかな宴席の中で行われ、家臣たちは権力のステータスとして茶道具の豪華さを競い合う、煌びやかな形が主流でした。これに対し、室町時代に生まれた「侘び茶」の進化を目指したのが千利休でした。人と人との心が直接触れ合い、お互いに自分自身を問う「直心(じきしん)の交わり」が茶会の本質であるという新たな思想を展開していきます。

 千利休は、自身の茶の湯の思想を凝縮させた茶室「待庵(たいあん)」を、京都の山崎にて建てました。わずか二畳という極限まで空間を切り詰め、茶道具は簡素化させましたが、特筆すべきは「にじり口」という60〜70cm四方の狭い出入口で、ここに利休の精神性が表現されています。例え身分の高い武士であっても、必ず頭を下げて通らなければならず、さらに、刀を帯同したまま入室することは出来ません。謙虚な気持ち無くして入室することは出来ないという、これまでの茶の湯とは一線を画すものであり、茶の湯の価値観や存在意義を大きく変えました。待庵は茶室の国宝指定3つの内、現存する国内最古の茶室であり、茶室の源流として今もその精神が受け継がれています。

 日本の茶碗の起源は、鎌倉時代に中国へ留学した僧侶が、抹茶と共に日本へ持ち帰った中国製「唐物」です。この世のものとは思えない美しさに衝撃を受けた権力者たちは、こぞって愛用するようになり、その価値は普遍的で、日本の茶碗の国宝8点のうち5点は唐物の指定です。一方、室町時代に移入された朝鮮半島の「高麗茶碗」は、ヒビ割れがあり、釉薬にはムラがあり、唐物とはタイプが異なるものでした。しかし、それを個性と捉えた新たな美意識が芽生え、高麗茶碗にも人気が集まり、美の基準は大きく変化していきます。そのような状況下、千利休は国産茶碗「和物」の開発を志し、京都の陶工・長次郎(現・楽家16代目)へ製作を依頼しました。一見いびつな形状ながらも、手にすっぽりと収まる柔らかな曲線美が特徴で、「楽茶碗」と称され、以降全国各地で和物茶碗の名品が次々と誕生していきます。

 茶の湯は文化の領域を超え、千利休は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に負けずと劣らぬ影響力を発揮するようになります。しかし、秀吉の政治における支配力と、千利休の茶の湯における支配力が衝突するようになり、秀吉によって切腹を命じられた千利休は、自ら命を絶ちました。一人の文化人の存在によって、ここまで大きく国の美意識が変化したことは、世界美術史においても稀なケースでしょう。空間、形状、色彩など、装飾性どころか美をも削ぎ落とし、削ぎ落とした末に何が残るか。その問い掛けが、千利休の美意識の全てに通じていきます。それは常識では捉えきれず、自分自身の生き方も問いながら探究を続けていくことで相通づるものが見えてくるものと考えています。千利休の美意識を問う。これからの日本のものづくりに、ますます不可欠な要素になっていくことでしょう。