[第192号] 日本人の美意識が溢れる伝統色

 日本の「伝統色」。色彩の美しさのみならず名称も美しく、日本が誇る伝統文化です。このような個性豊かな伝統色が生まれた背景としては、日本の風土と気候の多様な分布が挙げられます。南北に細長い日本は寒帯・温帯・亜熱帯の全てを備えており、面積の小さい一国でこれほど様々な風土を持っている国は珍しく、この独特な風土よって多種多様な植物が生息しています。日本人は四季折々の植物を通して、色に対する繊細な美意識を育み、伝統色の多くはこの植物の名前に由来して、美しい色と名称で表現されてきました。赤色系で例を挙げると、「撫子(なでしこ)」「紅梅(こうばい)」「茜(あかね)」などは、植物名に由来する代表的な伝統色です。

 日本で初めて色彩を取り入れたのは、603年、聖徳太子が制定した「冠位十二階」です。官位を12の等級に区別するため、中国の陰陽五行説による「青・赤・黄・白・黒」に「紫」を加え、六色で区別したことが起源とされ、以降、日本人の間に色彩へ対する意識が芽生えました。その後、日本の伝統色の基礎が築かれたのは平安時代です。華やかな色彩の衣装を重ね合わせた「襲(かさね)の色目」が流行したことから、色に対する日本人の意識が大きく変化し、それらの色には主に植物名に由来する名前が付けられました。室町時代に入ると侘び寂びの精神が重んじられ、華やかな色だけでなく枯れた渋みのある色をも好む傾向が生まれていきます。

 このように時代と共に継承されてきた伝統色は、江戸時代に入ると飛躍的な進化を遂げます。質素倹約を命じた「奢侈禁止令」が発布されると、派手な色の着物を着ることが禁じられ、青・茶・鼠の三系統の地味な色合いのみ着用が許されました。しかし、町人たちはその状況を逆手に取り、三系統の色の中に、微妙なトーンや色味の違いをそれぞれ100種類以上も見出し、世界に類を見ない色彩のバリエーションを構築。「江戸茶」「団十郎茶」「深川鼠」など、江戸らしい名称も生まれました。中でも青色系(藍色系)は、暖簾や風呂敷などにも多用されたことで独自の発展を遂げ、開国後の明治時代に入ると、日本の至る所に藍色が使用されたことから、海外の人々から「ジャパン・ブルー」とも称されました。この色は工芸品や浮世絵などにも多用され、欧州でジャポニスムが流行した時代、日本を象徴する伝統色として鮮烈に受け止められ、欧州人の心を動かしたのです。

 伝統工芸に関連する伝統色も、趣のある名称が多数存在します。「秘色(ひそく)」は、有田焼(佐賀県)を中心とした浅い緑色の青磁から採用された伝統色で、「神秘的」な美しさであることからこの名が付けられました。「呂色(ろいろ)」は、輪島塗(石川県)を中心とした黒漆の艶やかさを表現した伝統色で、呂色漆を使用し、呂色師と呼ばれる職人によって鏡面のような艶のある表面に仕上げる、漆塗り技術の最高峰の色です。「鉄色」は、南部鉄器(岩手県)を中心とした鉄器の深い青緑色を表現した伝統色で、鉄を頭文字とした「鉄紺(てっこん)」「鉄納戸(てつなんど)」など、鉄の微妙な色合いを表現した名称にも、日本人の美意識が感じ取れます。

 玉川堂を代表する着色(伝統色)は「紫金色(しきんしょく)」であり、深い藍色にうっすらと緑色が掛かった色彩で、大正時代、私の曽祖父・玉川堂四代目が名付けました。火炉で銅器を焼く作業を行っていた際、火炉に付いていた錫がたまたま銅器に付着し、そのまま着色作業を行ったところ錫の部分だけ異なった着色となったため、その後研究開発を進めた結果、世界無二の色として今に伝わっているものです。紫金色をはじめとする玉川堂の銅器の色は、長年のご使用と共に円熟味が増し、50年、100年の経年によって「経年美化」していきます。紫金色の色彩は、「紫」と「金」が織り成す「玉川堂の伝統色」へと美しく深まっていくのです。玉川堂ブランドコンセプトは「時と共に成長する。未来に価値を置く。」。銅器を使用することは、未来が良くなることを願うことであり、丁寧に「時」を重ねていく「生き方」を大切にすることでもあります。