8月中の営業予定(燕本店、銀座店、笄)

《燕本店》
お盆休みに伴い、工場見学は8月11日(日)〜18日(日)の期間、お休みいたします。
14日(水)、15日(木)は店舗のみ営業しております。 8月26日(月)は社内研修のため工場見学をお休みいたします。

《銀座店》
GINZA SIXの休館に伴い、8月26日(月)はお休みいたします。

《笄 KOGAI》
お盆休みに伴い、8月12日(月・祝)〜20日(火)はお休みいたします。

[第210号] 老舗企業の本質は革新を遂げる力

 長い業歴のなかで、数々の災害や需要の変化などを乗り越えてきた老舗企業。世界国別の創業100年以上の企業数は、1位・日本(約33,000社)、2位アメリカ(約20,000社)、3位スウェーデン(約14,000社)、4位ドイツ(約5,000社)、5位イギリス(約1,900社)と続き、日本は世界比率41%を占める世界一の老舗企業大国です。さらに、創業200年以上となると、1位日本(約1350社)は世界比率65%まで上昇し、創業年数が増すごとに比率は拡大していきます。100年以上の老舗企業の割合を都道府県別で見ると、1位・京都府、2位・山形県、3位・新潟県、4位・福井県、5位・滋賀県と続き、江戸時代、北前船によって栄えた日本海側エリアに、上位が並びます。

 日本に老舗企業が多い理由として、①戦後の一時期を除き、他国の支配を受けなかった。②日本人の勤勉性。③損得よりも顧客第一主義の国民性。④社員への面倒見が良い(暖簾分けは日本独自の風習)。そして、老舗企業の共通項として、①得意分野を構築し、長い年月をかけ、ひたすら磨き続けてきた。②お客様と長期的に良好な関係を築き、目先の利益は追求しないビジネスモデルを構築。③絶体絶命の状況でも、会社を存続させる強い信念。④自社の発展だけでなく、地域の発展も望む社風が養われている。つまり、社員、お客様、お取引先、そして地域からも、強固な信頼関係を作る「四方」良しの精神が備わっており、老舗企業とは「永く人から愛される存在」であると言えます。

 一方で、足元では老舗企業の倒産や廃業が目立っており、2024年は過去最多となりました。「老舗=安泰」のイメージは崩れかけており、今、老舗企業の底力が問われています。中でも伝統工芸業界では廃業が深刻で、増加傾向に歯止めが掛かっていない状況です。最盛期の1983年(昭和58年)に約29万人存在した職人数は、現在、約4万人へ。そして、生産高は約5,200億円から約800億円と著しく減少。伝統的工芸品の産地数は全国で244存在し、産地の平均生産額は約3億円。このような状況下、職人の約40%は、年収100万円以下という低所得であることから、事業承継の意思が無いと回答する事業所は約70%も存在します。このような状況が続くと、伝統工芸業界の規模は、より一層縮小され、多くの技術が失われてしまうという危機的状況にあります。

 日本企業の利益の半分は、約4%の大企業が占めており、残りの約96%は中小企業です。星野リゾート・星野代表は、「中小企業の経営手法は洗練されておらず、さらに、ファミリービジネス理論の導入も遅れている。一方で、それだけ伸ばす方法がたくさんあるわけで、いわば原石。中小企業の利益が倍になれば、日本全体で1.5倍となる。」とし、日本経済の成長力は、中小企業の成長にかかっていると指摘しています。中でも特に伝統工芸業界においては、世界有数の技術力に加え、歴史も文化も保有しており、それこそまさに、潜在価値を秘めた原石といえます。そこに経営理論が導入されることで、大きな発展が見込め、私は最も将来性の高い業界の一つであると考えています。

 私は折に触れて、「伝統とは革新の連続」という言葉を用います。老舗企業の本質は「不連続の連続」であり、常に変化し続け、革新を遂げる力です。老舗だから変えられないのではなく、むしろ、老舗であることを理由に変えることが出来、変わらないこと自体がリスクであることを、身を持って体認しているのが老舗企業です。非同族企業における経営者の交代は平均約6年に対し、同族企業の場合は約30年。世代交代の時は一気に若返り、物事を全く違った目線で経営が行えるため、イノベーションの可能性が高まります。老舗企業は、30年周期で襷(たすき)を繋いでいく「駅伝」。その時代に合わせた経営手法で革新を行い、老舗企業の存在価値を高めていくことが、日本経済のみならず、世界経済の発展にも寄与していくものと考えています。

[第209号] 地場産業活性化の新たな施策「アルベルゴ・ディフーゾ」

 複数の空き家を利用し、街全体を一つの宿に見立てる、イタリア発祥の分散型ホテル「アルベルゴ・ディフーゾ」が日本でも人気を集めており、開業する地域は年々増加傾向にあります。「アルベルゴ」はイタリア語で「宿」、「ディフーゾ」は「分散」を意味し、1980年頃、北イタリアの廃村寸前の村を復興させるプロジェクトの一環として開始され、これが過疎化対策の好事例として大きな話題を呼びました。現在は、イタリアで250地域以上、地中海エリアでは300地域以上のアルベルゴ・ディフーゾが存在しますが、地域の空き家や歴史的建造物をリノベーションし、宿泊施設やレストラン、体験工房などに転用することで、観光客の誘致に繋げるなど、過疎化対策だけでなく、地場産業活性化の新たな施策としても大きな成果を上げており、今や世界的な広がりを見せています。

 総務省によると、全国の空き家数は約900万戸、空き家率は約14%ですが、20年後には約25%、4戸に1戸は空き家になると予測され、その中には文化財としての価値を有する建造物も少なくありません。古い建物を解体して新しいホテルを建てるのではなく、地域の歴史や文化を尊重し、既存の建造物をリノベーションすることによって、その街が紡いできた物語を、「生きた文化財」として次世代へ継承することが、アルベルゴ・ディフーゾの基本理念です。日本では2009年、兵庫県丹波篠山市「篠山城下町ホテル・NIPPONIA」が先駆けとなり、以降、全国で地域色を活かしたアルベルゴ・ディフーゾが次々と開業。現在、全国70地域以上、ほとんどの都道府県でアルベルゴ・ディフーゾが存在するほど、勢力を拡大させています。

 宿泊者は、まず分散型ホテルのメイン施設となるレセプションでチェックインを行い、施設だけでなく街の説明も受けます。その後は、まるでその街の住人になったかのように商店街などを散策しながら、空き家を改装した客室へ向かいます。夕食は地元で人気の飲食店で舌鼓を打ち、朝食は昭和の匂いが漂う喫茶店へ。そして、お土産は商店街の和菓子屋で、といったように、宿泊体験そのものが「まちあるき」となり、地域の文化や住民と深く触れることが最大の魅力です。私は、アルベルゴ・ディフーゾの成功事例として特に注目されている、千葉県佐原市と兵庫県丹波篠山市で宿泊したことがありますが、この時の体験に大きな感銘を受け、これからの日本の旅の楽しみ方になると同時に、地場産業活性化としても影響力を発揮すると、確信した次第です。

 街全体で旅行者をもてなす、という考え方は、地域社会に大きな波及効果をもたらします。街の景観美に大きなコストは掛けず、地域社会で残されてきた「ありのままの環境」であることがポイントであり、その街並みの中で、店主や住民との何気ない会話が生まれ、旅行者は「お客様」ではなく、「街の住人」のような感覚を味わうことが出来ます。「暮らすように旅をする」という、この程よい距離感が、アルベルゴ・ディフーゾの最大の魅力と言えるでしょう。また、地域における宿泊施設は限定されるため「オーバー・ツーリズム」は起こりにくく、また、地域住民が旅行者を受け入れる意識を高めることで、旅行者もマナーや節度を持った責任ある観光「レスポンシブル・ツーリズム」にも繋がっていきます。

 現在のアルベルゴ・ディフーゾは、商店街を中心とした商業地域が中心ですが、これからは、町工場が点在する工業地域、中でも伝統工芸業界においては、空き家となっている伝統工芸の工房の活用が期待されます。昭和50年代、全国で約30万人存在した伝統工芸の職人は、現在約4万人と大幅に減少しており、空き家となっている全国の伝統工芸の工房の多くは、手付かずの状態と言われています。その活用方法としては、例えば内装で各地域の工芸素材を活かして地域色を演出し、宿泊施設だけでなく、体験工房やショップなどにもリノベーションするなど、付加価値の創出の可能性を秘めた伝統工芸の空き工房は、日本の宝のように思えてなりません。全国、どの地域にもアルベルゴ・ディフーゾの活用方法は、必ずあるはずです。こうした活用方法についての議論がさらに深まり、空き家を「生きた文化財」として、後世に活かしていく社会を目指していきたいものです。

[第208号] 産業観光で共創社会を

「tourism(ツーリズム)」という用語は、1760年に始まった産業革命による蒸気機関の発達によって鉄道や船などの交通手段が飛躍的に向上し、旅が「生活の必要」から、「非日常を楽しむ」ことへと変化する中で、娯楽の要素を含むものとして1811年発行のオックスフォード辞典で初めて表記されました。また、「観光」の語源は、国土交通省の見解によると、中国の四書五経の一つ「易経」の一文「観国之光」とされ、「国の光を観る」、つまり他国へ行き「良い点を観て学んでくる」と解釈されています。日本で初めて「観光」の言葉が使用されたのは1856年(安政3年)で、オランダから徳川幕府へ贈呈された日本初の蒸気船が「観光丸」と命名され、その後、観光の名称が広がっていきました。

 ものづくりの現場である工場を観光資源とする「産業観光」は、欧米において100年以上前から行われており、フランス・ワイン醸造所、オランダ・チーズ工場、ギリシャ・レース編み工場などが代表格として挙げられます。中でもフランス・ワイン醸造所には、世界中のワイン愛好家が足繁く通い、生産者と顧客が交流を深めながら、品質を高めてきた歴史があります。1950年、フランスが国家戦略として、産業観光の受け入れ態勢の整備を強化させると、ワイナリー巡りはフランス観光の柱へと成長。オーベルジュ(宿泊付のレストラン)の運営を始めるワイン生産者も増え、産業観光のおもてなし体制は、世界的好事例として特筆すべきものがあります。15年前、私も実際にフランスのワイナリーやオーベルジュでワイン生産者と交流を持ちましたが、この経験によって産業観光に目覚め、燕三条でも活かしたいとの思いを強くした契機となりました。

 日本において「産業観光」の名称が使用された時期は不明ですが、1964年(昭和39年)発行の「第1回・観光白書」には、「工場の紹介は、産業観光の名で知られている」と表記されていることから、少なくとも1964年以前より、産業観光の名称が使用されていたことになります。1966年(昭和41年)、運輸省が発行した「産業観光施設要覧」には、「工場を新しい観光対象とする」と表記され、工場見学を受け入れる全国328社が紹介されていますが、認知度は低いものでした。産業観光が行政や企業の取り組みとして本格的に動き出したのは1990年代からで、その情勢の高まりを受けて、「全国産業観光フォーラム」が2001年(平成13年)から毎年開催されています。公害のイメージから「観光不毛の地」と言われた川崎市は、2005年に「川崎産業観光推進協議会」を発足。一般向けの工場見学を積極的に行い、産業観光の必要性を全国に広めた事例の一つとして挙げられます。

 2008年10月、観光庁が発足し、「産業観光」は国策として位置付けられたことから、全国の行政で具体的な取り組みが検討され、この頃から一般的に全国で産業観光の意識が芽生え始めました。そして、企業単独ではなく地域内の企業が面として集まり、工場見学を行う地域一体型の産業観光イベントが各地で開催されたのです。2011年の東京都台東区「台東モノマチ」を皮切りに、2012年には東京都大田区「おおたオープンファクトリー」、東京都墨田区「スミファ」、富山県高岡市「高岡クラフトツーリズモ」、翌2013年には東京都台東区「浅草エーラウンド」、新潟県三条市・燕市「燕三条工場の祭典」などが先駆けとなり、現在、全国約80地域でこのような産業観光型のイベントが開催されています。開催最多の都道府県は、大阪府の11地域、次いで東京都の10地域、神奈川県と兵庫県の6地域と続き、開催地域は年々増加傾向にあり、産業観光イベントは地場産業の潮流となっています。

 約15年前、新潟県三条市の金属加工メーカーが「オープンファクトリー」という言葉を発案し、以降、自然発生的に広まっていき、「工場見学」に代わる言葉として定着しつつあります。そして今年10月、20〜30代の若手経営者が運営する「燕三条工場の祭典」実行委員会が主催した燕三条工場サミットにおいて、「産業観光」に代わる新しい用語として「メーカースケープ」を発表しました。ものづくりをする人々(メーカー)が創り出す、唯一無二の風景(スケープ)という意味です。産業観光の今後のあり方として、工場を見学するだけでなく、地域の食や宿泊などを組み合わせ、地場の様々な産業が「競争」から「共創」へと連携する、新たなまちづくりの構築が必要不可欠となりました。「ツーリズム」が意味するところの「非日常」、そして「観光」が意味する「観て学ぶ」体験が、工場にはあります。さらに「観る側」だけではなく「観られる側」にとっても、そこにある価値、ランドスケープを新たな目線で見つめ直す新鮮な体験が「産業観光」にはあり、それこそが地場産業の未来に繋がる芽となるはずです。「工場を開く」ことで拓ける地場産業の新時代。全国の全ての地場産業で産業観光を推進させ、共創社会によって地方創生を前進させていきたいものです。

[第207号] 和紅茶ブームの到来

 日本国内で栽培・加工された紅茶は、「和紅茶」の名称でブランド化され、需要は大きく伸びています。日本における紅茶の生産は、1870年代(明治時代初期)から行われていましたが、世界的に紅茶人気が高まる中で、1990年代より本格的に紅茶生産へ取り組む機運が高まり、紅茶生産を開始する茶農家が増え始めました。その後、技術改良が重ねられ、世界の品評会において高い評価を受けるなど日本の和紅茶の品質は年々高まり、2010年以降、和紅茶ブームに火が付きます。2008年時点で和紅茶の産地拠点数は100未満でしたが、昨年2024年には1000を超え、今や茶農家の多くが緑茶の生産だけでなく、和紅茶の生産にも乗り出しています。

 和紅茶の生産増加の背景には、緑茶産業の需要の変化があります。家庭用に販売される茶葉の販売は衰退の一途を辿る一方で、ペットボトル飲料に使用される業務用の茶葉の需要は増加しており、今後も安定した需要が見込めます。しかし、ペットボトル飲料用の茶葉は、年間を通し安定した作業が確保できるものの、納入価格は安価であり、大量生産・大量消費型のビジネスに将来的な不安を抱く茶農家は少なくありません。そこで茶産業の原点であり日本の伝統文化でもある、「急須でお茶を淹れる」需要を取り込むべく、和紅茶に一筋の光を見出したのです。

 緑茶も和紅茶も、原材料となる茶葉は全て「チャノキ(ツバキ科)」の新芽を使用しており、緑茶と紅茶の違いは、「発酵の有無」にあります。緑茶は発酵させない「不発酵」のため、茶葉の鮮やかな緑色が残るお茶に仕上がります。一方、紅茶は十分に発酵させる「完全発酵」のため、茶葉は深い赤みを帯び、お茶も同様の色合いに仕上がります。和紅茶の場合、日本が開発した紅茶用の品種「べにふうき」を使用することが一般的ですが、近年は、緑茶向けの品種「やぶきた」を使用して、高品質な紅茶を生産する技術も向上しており、和紅茶の味わいはバラエティーに富んでいます。

 「身土不二(しんどふじ)」。人間の身体と人間が暮らす土地は一体であるという意味で、紅茶も風土やそこで暮らす人々に適した茶葉が生産されます。世界最大の紅茶生産国はインドですが、熱帯地方の強い日差しを浴びることでタンニンが多く含まれることから、インド産の紅茶は渋みや香りが強く、インパクトある味わいが特徴です。砂糖やミルクを混ぜて飲むことが一般的で、スパイスの効いた料理と相性が良くなります。一方、和紅茶は、日本の穏やかな気候風土の中で育つため、タンニンは比較的少なく、渋みの少ない甘い香りと優しい味わいが特徴で、ストレートで飲むことが一般的です。デザートはもちろんのこと、出汁の効いた和食にも良く合います。最近は、和食のお店でも和紅茶を楽しめるお店が増え、ペアリングの定番として定着しつつあります。

 コーヒーを楽しむ方の7割が男性に対し、紅茶を楽しむ方の7割が女性という統計があります。コロナ禍の影響で、自宅で過ごす時間を大切にする風潮が生まれたことから、和紅茶を淹れるための道具の需要も高まり、伝統工芸業界においても様々な素材や形状のティーポットが開発されています。コーヒーは食後に楽しむ傾向に対し、和紅茶は食後だけでなく食事中にも楽しめ、食とのペアリングに適したお茶です。栗や南瓜など日本の秋の味覚には、和紅茶とのペアリングがピッタリで、特にお勧めの季節となります。ティーポットで和紅茶を淹れ、秋の季節の移ろいを秋の味覚と共に楽しんではいかがでしょうか。日本茶の概念がきっと変わるはずです。

[第206号] 「グランドツアー」 〜発想力は移動距離に比例する〜

 イギリス特権階級の青年が、1年〜3年掛けて欧州を周遊した修養の旅のことを、「グランドツアー」と言います。古来より旅の目的は主に商用でしたが、1660年〜1820年頃を全盛期としたこのグランドツアーによって個人旅行の風潮が生まれ、現在の「観光」の起源となっています。グランドツアーは元来、欧州主要国の青年を対象とし、社交に出る前の教育的な位置付けとして行われましたが、イギリスが慣行化して社会的な制度に高めたということから、一般的にはイギリスの青年の旅を指します。人気の訪問国は、芸術先進国であるイタリアとフランスで、美術・建築・文学などの教養を深めると共に、上流階級のサロンに招かれ、礼儀作法やダンスなどの社交マナーも学び、教育の集大成としての側面を持っていました。

 グランドツアーがイギリスで発展した背景には、植民地拡大による政治や教育の低下や、ルネサンス運動の流れに乗れず、芸術文化が未発達であったことが挙げられます。そのような社会状況下、国としては自国の大学で学ぶよりも、フランスやイタリアなど、芸術先進国を訪問することで見識や美意識を磨き、将来、自国の指導者として活躍する人材を育てるという思惑がありました。長期に渡る旅には、チューターと呼ばれる家庭教師が同伴し、名所旧跡などの訪問のほか、現地の貴族や学者の指導など、実地での英才教育が為されたのです。

 グランドツアーを実施する中で生まれた新しい美意識のことを「ピクチャレスク」と言い、「絵画のように美しい」ということを意味します。イギリスの青年たちは、イタリアのアルプス山脈を筆頭に、旅先で出会った雄大な景色から感涙するほどの衝撃を受けました。その景色を絵画として残したいという思いから、風景画を描く風習が生まれたのです。西洋美術においては、歴史画のジャンルの中で風景画の発展はあったものの、風景をその場で描写する風習は無く、それまで見向きもされなかった題材でした。その後、イギリスの画家を中心に風景画が大流行し、西洋美術の新たなジャンルとして定着していきます。また、この風景画が契機となり、絶景を紹介する旅行ガイドブックも発行され、現在の旅行ガイドブックの礎にもなりました。

 風景画に端を発したピクチャレスクは人々に広がり、その雄大な自然美を、日常の風景にも求めるようになり、「イギリス式庭園(イングリッシュガーデン)」が誕生しました。左右対称で人工的整形が特徴の「フランス式庭園」とは一線を画し、四季折々の草花を育て、雑草は全て刈り取らず、自然との共生を大切にすることが特徴で、バラを栽培したり、ハーブを摘んだりと、変わりゆく自然の美しさを楽しむ風潮が生まれました。さらに、この時期に発展したのが、銀器とアフタヌーンティーです。銀器には、グランドツアーの影響によってイギリスで発展した芸術様式「ジョージアン様式(ジョージアン・スタイル)」が採用されました。この様式は、銀器職人による卓越した技術のみならず、美意識の高いデザインも秀逸で、文化的に出遅れていた島国のイギリスが、ようやくスポットライトを浴び始めたのです。

 「発想力は移動距離に比例する」という言葉を、私は常々発しています。観光の原点であるグランドツアーを見直し、様々な文化とそこで暮らす人々に触れることの大切さが、この言葉に込められているからです。グランドツアーの帰国後、イギリスの青年たちが担った社会的影響は特筆すべきものがあり、さらに、産業革命によって鉄道が開発され、欧州で鉄道網が広がっていくと、中流階層の青年たちも旅行をするようになり、その知見はイギリス経済にさらに大きな波及効果をもたらしました。現在、パスポート所持率世界一はイギリスの86%。一方、日本は17%で、隣国の台湾60%と比較しても、所有率の低さは際立っています。インバウンド政策は即効性が高く、短期間で日本経済を加速させますが、日本の弱点であるアウトバンド政策には、より強力な施策と国家予算を組み、長期的視野に立って日本経済を俯瞰していきたいものです。

[第205号] 技を磨き、美意識を磨く

 歌舞伎役者としての道に人生を捧げ、人間国宝になるまでの壮絶な生き方を描いた、現在上映中の映画「国宝」の大ヒットを受けて、改めて「人間国宝」への注目が集まっています。人間国宝という名称は、自然発生的に生まれた俗称であり、正式名称は「重要無形文化財保持者」です。「有形文化財」は、建物や作品などのモノに対して指定されることに対し、「無形文化財」は、技術に対して定められます。中でも価値の高い技術は「重要無形文化財」に認定され、その技術を高度に体現している個人が「重要無形文化財保持者」として認定されます。これらの文化財を所管する文化庁は、「人間国宝」という呼称が一般的に広く浸透していることから、事実上これを許容しており、そのため正式名称よりも俗称の方が世間で使われる機会が多くなってきています。

 人間国宝制度の契機となった出来事は、1949年(昭和24年)、奈良県斑鳩町の世界最古級の木造建築・法隆寺金堂の火災です。約1300年前から伝わるアジア仏教を代表する十二面壁画を焼失したこの火災は、日本のみならず世界中に大きな衝撃を与え、「法隆寺を焼くような国は、文化国家とは言えない」と、厳しい批判を受けました。そこで翌1950年、国は従来の国宝保存法などの法律を見直し、新たに「有形文化財」「無形文化財」などの文化財保護法を制定。さらに1954年改正時に重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝の認定制度が始まりました。伝統工芸や芸能など、無形文化を担う人々を認定する特殊な制度は、世界でも高い評価を受け、国によって形は異なるものの、フランス・中国・韓国などでも同様の制度が設けられました。

 文化庁はこの度、人間国宝の制度を約50年ぶりに見直し、対象分野である「工芸技術」と「芸能(能・歌舞伎など)」に、新たに「生活文化」を加え、料理人や杜氏といった日本の食文化の担い手も、人間国宝に認定する方針を発表しました。「和食」や「伝統的酒造り」がユネスコの無形文化遺産に登録され、さらにはインバウンドの増加も後押しとなって、日本の食文化は世界中から注目を集めています。一方で、生活様式の変化や過疎化、担い手不足などにより、郷土料理や地酒といった地域の伝統食の中には、存続の危機に直面しているものも見受けられます。生活文化の分野における人間国宝制度の導入は、後継者育成に大きな役割を果たし、日本が誇る食文化の継承発展のための方策として期待できます。

 2010年(平成22年)、玉川堂6代目玉川政男の実弟・玉川宣夫は、新潟県では制定以来5人目、燕三条では初めて「重要無形文化財保持者(鍛金)」に認定されました。座右の銘は「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」。千日(3年)かけて心構えを学び、万日(30年)かけて技を磨いていくという意です。宣夫は事実、この格言の倍の60年以上に渡り、ひたすら銅を打ち続けてきており、それだけに日々精進の大切さは誰よりも熟知しています。玉川堂の職人に対しては「一生続ける覚悟で銅を打つこと」と初心を貫く大切さを説き、「親戚全員分のヤカンを作れ」が口癖で、そこには、玉川堂の技術が凝縮されたヤカンを作り続けることによって鎚起銅器の技術を磨いて欲しいというメッセージが込められています。この言葉を受け継いだ玉川堂の職人たちは、終業後に開放された工場で日々、鍛錬の鎚音を響かせています。

 「人間は繰り返し行なっている行動により作られる。優秀さは行動ではなく、習慣によるものである(アリストテレス)」。「私は賢いわけではない。人より長く一つの事と向き合っているだけである(アインシュタイン)」。継続することの大切さを説いた格言ですが、人間国宝に共通する哲学として、継続することよって育まれる美への意識が重要な要素となっています。日本刀の人間国宝・隅谷正峯氏(故人)は、「刃は作り手の品性から生まれる」とし、「美意識を研ぐ」ことの重要性を説きました。彼は、日本刀の最高傑作は14世紀の鎌倉時代であるとし、「高い人間力が備わっていないと、この刃は作れない」と、技術力だけでは成し得ない、刃から滲み出る人間としての品性の高さを賞賛しています。「万日の稽古を錬とす」の錬とは、心身を鍛え上げ、万日(30年)のその先に会得し得る美意識をさらに磨き上げていくこと。人間国宝の生き方には、日本文化を後世へ継承するための本質が伏在しており、その生き方とは、未だ会得し得ぬ美意識を求めて、繰り返し自らの生き方を問い続けることであると思っております。

[第204号] 大阪関西万博で感じたバウハウスの精神

 大阪関西万博の見所の一つに、各国のパビリオンの建築が挙げられます。その国の個性が反映された建築が軒を連ね、パビリオンの外観をじっくり眺めることも、今回の万博の魅力と言えるでしょう。先月、万博出展と社員研修を兼ねて万博へ行きましたが、各国のパビリオンを眺めると、「いのち輝く未来社会のデザイン」が万博のコンセプトだけに、100年前、ドイツで興ったデザイン運動「バウハウス」の精神が、色濃く反映されていると感じました。中でも欧州連合(EU)パビリオンは、「新欧州バウハウス」をテーマに掲げて建築され、バウハウスの本場・ドイツのパビリオンは、バウハウスの精神が体現された流石の存在感。その他のパビリオンでも、その精神が至る所に感じられ、「現代建築の多くは、バウハウスに行き着く」と言われていますが、建築の魅力満載の万博に胸が躍りました。

 「芸術と技術の統一」。バウハウスはこの言葉を教育理念とし、1919年にドイツで設立された国立の美術学校です。「全ての造形活動の最終目標は建築である」という考え方のもと、様々な造形活動を建築のもとに総合させる教育を実施し、建築・工芸・絵画・写真などの専門分野を学ぶ生徒に、同じ教室で同じ教育を受けさせ、総合的なデザイン教育を学べる場を創生したのです。このように専門分野の垣根を無くし、それぞれの専門性を学ぶことで、ものづくりの本質を見極め、芸術を「産業」として捉えることを目指したのです。100年前の教育としては画期的なことであり、バウハウスの存在によって「デザイン」という概念が明確化され、その重要性が認識される契機にもなりました。

 「Form follows function(形状は機能に従う)」「Less is more(より少ないことは、より豊かなこと)」。バウハウスの教育で重視されたのは、「機能美」と「引き算のデザイン」です。それは机上の空想から生まれる形ではなく、人間の豊かな生活を追求した結果として生まれる必然的な形。つまり、本当に必要なものだけを残すという引き算のデザインを大切にし、取り除くものが無くなった本質のみを表現することで、普遍的なデザインが生まれるという考え方です。日本人は、バウハウスの精神に共感する傾向が強いとされますが、そこには「茶の湯」の精神との共通項が見出せます。茶室の空間・形状・色彩など、装飾性どころか美をも削ぎ落とし、削ぎ落とした末に何が残るか。日本とドイツの両国は老舗企業が多く、工芸の盛んな国ですが、そこには、バウハウスと茶の湯の美意識が、国民の感性に根付いていることも一因と考えています。

 バウハウスは、産業革命の大量生産社会に反発し、手仕事の重要性を説いたアーツ・アンド・クラフツ運動の流れを汲んでいます。しかし、この運動と異なるのは、機械化大量生産を真っ向から否定するのではなく、「デザインの視点」を取り入れ、規格品として大量生産されても、匠の手業のごとく高い品質を目指すことでした。つまり、芸術家としての感性、エンジニアとしての感性など、個々人の多様な感性を受け入れ、そして融合させ、地球にも人間にも負荷の掛からない、「持続可能な社会」を構築するためのものづくりを指しているのです。これはまさに、大阪関西万博の理念と共鳴しており、それが各国のパビリオンの建築にも表現されています。

 日本の木造建築は、1300年以上継承されてきた世界最古の歴史があり、その伝統技法と最新技術を融合して建築したのが、大阪関西万博の象徴「大屋根リング」です。持続可能な社会へ向け、世界の建築業界において木造による建築が推進されている最中、この大屋根リングを世界へ向けて発信することは、木造建築の新時代へ向けた歴史の転換点と成り得ます。あくまで個人的な見解ですが、万博の建築で最もバウハウスの精神を感じたのが、大屋根リングでした。天候にも恵まれ、沈む夕陽を眺めながら大屋根リングの屋上を一周し、100年前に生まれたデザインの源流・バウハウスのものづくりの精神が、今、この万博会場でも花開いたのを目にし、そして100年後の万博に想いを馳せる。今回の万博は、各国パビリオンの展示と合わせて建築にも注目が集まっています。これを機に改めて今、「バウハウス」の精神を見つめ直し、100年後のものづくりのあり方を考える万博にしていきたいものです。

[第203号] 万博と玉川堂の歴史

玉川堂の創業は1816年。初代・玉川覚兵衛が17歳の時、近郊の弥彦山の銅を使用して、薬罐(やかん)を主力商品とした銅器の製造を開始し、「也寛屋 覚兵衛(やかんや かくべい)」の屋で店を立ち上げたのが始まりです。当時は主に近郊の住民向けの生活道具を製作しており、その技術は、長男・覚次郎(玉川堂2代目)へと受け継がれました。転機となったのは明治政府の誕生です。明治4年(1871年)、政府は博覧会事務局を設置し、2年後の明治6年に開催されるウィーン万国博覧会へ出展すべく、全国各地の地場産業へ出品要請を行い、その依頼が玉川家にもあったのです。明治初期の新潟県では、5名以上の職人を抱える地場産業は、織物(13軒)・瓦(4軒)・銅器(1軒)・煙管(1軒)の4種が存在し、この中の銅器(1軒)は玉川家の「也寛屋 覚兵衛」です。当時の経緯は不明ですが、この情報が博覧会事務局へ伝わり、出品要請に繋がったものと考えられます。

明治政府が誕生し、250年以上続いた鎖国政策が終焉したことで、開国による近代国家形成の道を歩み始めた日本。徳川幕府の絶大な支援によって発展してきた工芸品は、外貨を稼ぐための最重要の輸出品目として位置付けられ、万博への出品は、まさに国の権威をかけた政策でした。将軍家や大名などのパトロンを失い、失職した全国各地の職人たちにとって、万博の存在は、再び技を発揮する絶好の機会であり、一筋の光明でした。当時42歳だった2代目覚次郎にとっても、生活雑器から工芸へと技術を昇華する好機となり、目線は燕から世界へと向けられました。万博対策として覚次郎は、銅器に文様を施す「彫金」技術を新たに取り入れ、文様の図案は、近郊の三条の日本画家に依頼するなど、燕の技術の総力を結集させました。そして、来たる明治6年、ウィーン万博の出品を機に、「也寛屋覚兵衛」から「玉川堂」へと称を変更し、出品作品には初めて「玉川堂」の刻印を打ち、その作品は、ウィーンへ向けて海を渡ったのです。

しかし、燕の技術は世界で通用しませんでした。全国各地から選抜された工芸品は、徳川幕府の支援によって発展した最高峰の技術を駆使し、日本ブーム「ジャポニスム」が興るほどの完成度の高さ。覚次郎は、技術力の底上げと共に、マーケティングの必要性を痛感し、大胆な経営の刷新を図ります。まず明治15年(1882年)、当時53歳だった覚次郎は、玉川堂の経営を長男・覚平(30歳)へ託し、覚平は玉川堂3代目に就任。次男・鉄平と三男・寅治には、語学を習得させ海外交渉を担当させました。さらに彫金担当として、高田藩(新潟県上越市)で失職した鍔師と東京の彫金師をスカウトし、鮮やかな色彩を表現すべく東京の鍍金(めっき)師も玉川堂へ招聘。さらに、工場の新築計画も同時並行で進め、新工場が竣工したことにより、万博で勝負する戦力が整ったのです。

そして、満を持して出品したのが、明治26年(1893年)、シカゴ万博です。ジャポニスム絶頂期を彷彿とする、高さ約1mの大花瓶(2個)がお披露目されました。ウィーン万博以降、明治政府の指導によって万博出品作は、大型で美術的要素を高めた絢爛豪華な文様を施すよう全国の職人に通達されており、それを体現した超大型の鎚起銅器でした。「工芸」の名称は、明治6年ウィーン万博出展の際、品別の分類として初めて使用されましたが、「美術工芸」という名称は、明治28年、このような絢爛豪華な作品(超絶技巧)によって生まれた用語であり、近年では「輸出工芸」とも称されています。こうして、覚次郎の経営体制の刷新と技術面での美術的要素の高まりが功を奏し、大花瓶は玉川堂の万博初受賞作品となり、後の大正元年(1912年)、明治天皇御大葬儀に献上されました。しかし、ひと時華やいだジャポニスムはその後長続きせず、明治33年(1900年)、パリ万博においてアールヌーボーが大流行する中、日本の職人たちは旧態依然とした美術工芸を出品していたことから、厳しい評価を受けることとなるのです。

明治34年以降、日本の工芸は「美術工芸」から再び「生活道具(趣味的工芸)」へと回帰し、玉川堂も湯沸・水注・花器などの製作へとシフトしました。しかしながら、万博で養われた知見と技術力は、万博前から格段の進化を遂げており、日本の工芸は新たな道を歩み始めます。大正、昭和(戦前まで)の万博では、時流に沿った洗練された趣味的工芸品が出品され、日本独自の文化や技術を世界に示す機会となったことで、日本は工芸王国としての地位を不動のものとしたのです。このように、万博によって工芸は発展しましたが、もし万博が存在していなければ、明治維新で失職した職人は再起の機会を失い、全国で多くの技術が失われ、現在の地場産業は全く違ったものになっていたでしょう。ひいては、玉川堂も存在していないかもしれません。つまり、私たち工芸業界において万博は、自らを顧み、視点をシフトし新たな創造を生み出す契機となる、絶大な影響力を持つものなのです。現在開催中の大阪関西万博。この度の万博を契機に、万博と工芸の関係性、そして、工芸の存在価値をあらためて認識する機会にしていただければ幸いです。

[第202号] 人の営みに不可欠な素材「銅」

人類が初めて使用した金属は「銅」です。BC6000年頃、メソポタミア地域(イラン西部&アナトリア東部)で出土された銅を、棒状に加工した装飾品やピンなどが世界最古の銅製品、金属加工製品であるとされ、その後、エジプトなどの周辺地域にも銅加工の技術が広がりました。それまでの人々の富は、農作物・繊維・土器など、劣化や破損しやすい物資でしたが、「銅」は劣化や破損の恐れがなく、溶かせば再利用できることから、普遍的な価値を持つ新しい種類の富として、人々の間に実用面での絶大な影響力を持って広がったのです。銅の存在によって、大規模な農業や強力な武器の製造が可能となり、銅加工の技術が盛んな地域ほど、本格的な都市形成が成され、銅器の進化と文明の進化は比例するようになります。

このように、銅が産出された地域は銅加工技術の高まりと共に発展していく中で、BC3000年頃、地中海の小さな島「キプロス島」で大規模な銅鉱脈が発見されました。この頃は、銅に錫を約10%配合することで強度を増した青銅器が発明され、工具・容器・武器などの銅器が生活必需品となり、いわゆる石器時代から「青銅器時代」へと移行した時代。当時の人々にとって、喉から手の出るほど欲しかった物が、銅だったのです。このキプロスの銅は、エジプトやローマなどの先進都市へ運ばれ、古代文明の発展に大きな役割を果たしました。その功績は現在も継承されており、キプロスの国旗は、銅の国であることを象徴すべく銅の色で表現され、「copper(銅)」の語源は、キプロス島の鉱石を意味するラテン語「キュープラム(cuprum)」であり、化学記「Cu」は、このcuprumの最初の二文字が反映されています。

日本における銅の歴史は、BC300年頃の弥生時代と比較的遅く、銅鏡・銅鐸・銅剣などが製作されましたが、一大転機となったのが奈良時代の708年です。それまで日本の銅は、中国や朝鮮からの輸入に頼ってきましたが、和銅山(埼玉県秩父市)で大規模な銅鉱脈が発見され、日本で初めて銅が産出されたのです。銅の安定的な供給は、国家戦略の重要課題として長年の懸案事項であったことから、国内での銅の産出は世紀の大発見として位置付けられ、708年より「和銅元年」と年を改めると共に、日本初の通貨「和同開珎」が発行されました。また、国威の象徴として、752年、奈良・東大寺に世界最大の銅製仏像「盧舎那仏」が9年間の製作期間を経て完成。以降、仏像や仏具の製作が盛んに行われるようになり、銅の存在は、日本の仏教の拡大にも大きな影響力を及ぼしました。

和銅山における銅鉱脈の発見は、日本の近代国家形成を加速させる契機となりました。以降、全国各地で銅鉱脈を探す動きが起りましたが、日本の銅産出の最盛期は江戸時代です。徳川幕府は鉱山開発を重要政策と位置付け、全国の各藩に対し、鉱山開発の奨励策を強力に推し進めたのです。その結果、1700年代に入ると、日本は世界の銅産出の約3分の1を占める、世界一の銅産出国へと上り詰めます。長崎からオランダへの輸出額は、銅が約80%を占めていた年もあり、銅で得た莫大な財力によって安定した政権運営が可能となり、実際に江戸時代は、戦争の無い社会が約250年間続く、世界でも類を見ない太平の国でした。世界各国における銅の技術革新は武器の製造が主であった、戦争の絶えなかったこの時代に、日本では太平の世を反映するかのように、文化的な審美を謳歌する工芸技術に注力しており、これが今日の日本が世界に誇る工芸王国としての礎となっているのです。

江戸幕府の鉱山奨励策を受け、新潟県には約15の銅山が存在しており、新潟最大の「草倉銅山(くさくら・阿賀町)」は会津藩の管轄として会津若松の金属加工産業を支え、村上藩の管轄である「間瀬銅山(まぜ・弥彦山)」は、燕の金属加工産業を支えました。燕の銅器製造技法は、仙台の職人(仙台藩)から伝授されましたが、燕の江戸時代における金属加工技術の多くは、会津若松の職人から伝授されています。当時、全国各藩において規模の差こそあれ、日常生活道具として銅製品が製作されており、銅の加工技術は、全国どの地場産業にも少なからず因果関係が見られます。銅の歴史を紐解くと、世界文化・日本社会・地域経済など、違う角度からの視点で、史実を見出すことが出来ます。そして、現代社会においては、銅はパソコン・携帯電話・車などで大量に使用されており、昔も今も人間は常に銅と共に暮らしています。銅は人の営みに必要不可欠な金属。銅という素材の歴史、そして尊さを、あらためて認識する機会になれば幸いです。