来月「大阪関西万博」が開幕します。万博の歴史は、1851年(嘉永4年)「ロンドン万博(第1回)」を起源とし、日本と万博の関わりは、1867年(慶応3年)「パリ万博(第2回)」にて、徳川幕府・薩摩藩・鍋島藩が、それぞれ独自ブースで出展したことに端を発します。日本ブーム「ジャポニスム」の契機となった万博であり、薩摩藩のブースを訪れたルイヴィトン2代目ジョルジュ・ヴィトンは、漆器に描かれていた島津家の家紋「丸に十文字」のデザインに感銘を受け、「L」と「V」を掛け合わせたモノグラムが発案されたと言われています。そして1868年の明治維新を経て、明治政府が日本として初めて公式参加した万博が、1873年(明治6年)ウィーン万博です。開国間もない日本を世界へPRする絶好の機会として、多数の大工をウィーンへ派遣して日本館を建築し、全国の工芸品などを大挙して出品。ジャポニスムはますます加熱していきます。
江戸時代、日本は戦争の無い社会が約250年間続き、当時、世界的にも類のない太平の国でした。世界各国の技術革新が軍用品に向けられていた中、日本の技術革新は趣味を満たすための工芸品「趣味的工芸(造語)」に向けられており、将軍家や大名らがパトロンとなる中で、工芸職人たちは自慢の技を競い合っていました。また、日本は約200年以上に渡り鎖国が行われていたことから、その高度な工芸品は国外に流出せず、世界の美術コレクターに知られることなく、日本人のみが享受していたのです。しかし、江戸幕府が崩壊し、明治政府が誕生すると、将軍家や大名の後ろ盾を失った工芸職人たちは失職し、技術を発揮する場を失います。その時の救世主となったのが「万博」でした。
明治政府にとって、開国後の新しい日本を世界へPRする使命は、これまでの万博よりも格段に上がりました。国の権威をかけ、江戸時代に日本で最も進化した技術「工芸」を中心に出品し挑んだ、新政府の万博デビュー戦であるウィーン万博。工芸技術のレベルの高さに世界中が驚愕し、展示品は美術コレクターがこぞって購入。会場の一番人気は、未知なる極東の国・日本でした。政府も職人たちも、想像を遥かに上回る好反応を得たことから、日本の工芸は「輸出」によって、新たな活路を見出すことを決意します。そして5年後の1878年(明治11年)、パリ万博(第3回)では、さらに精巧で、かつ大型の工芸品「明治輸出工芸」を出品。日本は存在感を一層高めると共に、ジャポニスムは最高潮を迎え、日本様式は欧州で大ブームを巻き起こします。
ウィーン万博の大成功は、明治政府の国内事業においても大きな波及効果を及ぼしました。万博の国内版を開催しようと、ウィーン万博の4年後、1877年(明治10年)、東京の上野公園で「内国勧業博覧会」を開催。この博覧会によって、全国より多くの工芸職人が出品できるようになり、地方色豊かな工芸品が幅広くお披露目されると共に、国民の工芸に対する意識が高まり、現在の伝統工芸産地の礎が築かれました。そして、内国勧業博覧会のために建築されたのが、現在の「東京国立博物館」です。国内での博覧会の開催が博物館の設置にも繋がり、以降、全国各地で博物館が建築され、日本の文化に対する意識の高まりが大きく芽生えたことも、万博がもたらした波及効果と言えるでしょう。
玉川堂にとってもこの時期は、ウィーン万博への出品、その後の内国勧業博覧会によって、鍋・釜・薬缶などの日常雑器から、本格的な工芸品へと製作転換を図った変革期に当たります。当時の玉川堂2代目・玉川覚次郎は、ウィーン万博出品の際、商号を「玉川堂」とし、出品作に初めて「玉川堂」の刻印を打刻しました。そして、ジャポニスム絶頂期の1882年(明治15年)、長男・玉川覚平は30歳の若さで3代目に就任し、多数の万博へ出品することで、玉川堂の技術力は飛躍的に向上しました。それと共に3代目弟の玉川寅治は、堪能な語学を活かして輸出事業を開始し、玉川堂新世代による流通改革が推し進められ、現在の玉川堂の礎を築いたのです。
玉川堂200年を超える軌跡の中で、技術的・商機的にも大きな転期をもたらす機会となった「万博」の存在。来る6月16日〜18日、大阪関西万博において、読売新聞社様・日本工芸産地協会との共催会場の中で、玉川堂ブースを設け、会社研修として全社員と共に、万博会場入りします。玉川堂のブランド理念「考働バイブル」の一つに、「歴史を学び、歴史を担う自覚を持つ」という言葉あります。万博の歴史を学び、そして実際に万博を観て、これからの工芸のあり方を、全社員であらためて深めていく場にしていきたいと思っております。