[第167号] 約8000年の時をつなぐ地場産業 ジョージアワイン

 ワイン醸造発祥の地は、東ヨーロッパのジョージア(旧クルジア)とされています。2015年、BC6000年頃の使用と予測されるワイン醸造用の素焼きの壺が発掘され、それまで最古のワイン醸造地とされていたイランより、約1000年以上も古くから行われていたことが判明し、世紀の発見として、ワイン業界を中心に大きな話題となりました。BC3000年頃、文明が発達していたエジプトやギリシャなどの地中海沿岸の諸国へワイン醸造が伝わると、その近代化と共にワイン貿易も盛んに行われ、ワインは古代文明の基幹産業へと成長していきます。農業大国のギリシャでは、当時最も高品質なワインが生産されていたとされ、ギリシャ人は毎晩のように酒宴(シュンポシオン)を開き、美味しいワインを飲み交わしながら学問や芸術などの討論を行なっており、これが現在の「シンポジウム」の語源となっています。

 さて、世界最古のワイン醸造地とされるジョージアワインの特色は、「クヴェヴリ」と呼ばれる素焼きの卵形の壺の中に、果皮、果肉、果汁などを投入し、それを地中に埋め込む醸造法です。地中に埋めることで、ある程度一定の低い温度に保ち、卵形の形状は果汁や果皮などの循環を促します。特筆すべきは、BC6000年頃から現在に至るまで、約8000年にも渡り、クヴェヴリを使用した醸造法がジョージア国内において脈々と継承されていることです。クヴェヴリで使用する素焼き用の粘土は、ワイン醸造用に適した貴重な粘土であり、ジョージアでも一部地域でしか採取できません。さらに、クヴェヴリのサイズは大小様々で、大きいサイズでは高さ数メートルという特大サイズも存在し、ワイナリーの規模や醸造家の目指す味わいによってサイズは異なりますが、成形のみならず、窯の温度や時間など、素焼きの製法には熟練の技が求められます。ジョージアワインは、クヴェヴリ職人とワイン醸造家の技術の合わせ技によって誕生する、まさにジョージアの大地が育んだ世界に誇る地酒と言えるでしょう。

 そのジョージアワインを代表するワインは「オレンジワイン」であり、オレンジワイン発祥の国でもあります。オレンジワインは、白葡萄を使用して赤ワインの醸造法で作られており、仕上がりはオレンジ色になります。白ワインは果汁のみを発酵させますが、オレンジワインは、果汁と一緒に果皮なども発酵させるため、果皮の成分が加わることによってオレンジ色となり、味わいに複雑味や厚みを増します。白の風味を感じつつ、赤のニュアンスも感じられるため、ペアリングの幅の広さが特徴です。香辛料をふんだんに使ったスパーシーな料理、明太子やキムチなど、これまでワインと相性が良くないとされてきた料理にも調和するため、様々な料理とのペアリングの楽しみ方が広がります。また、赤白に比べて抜栓後も日持ちするため、1週間位かけて味覚の変化を楽しむこともお勧めです。好みにもよりますが、冷やし過ぎると渋みが強調されるため、白ワインよりやや高めの温度が良いかと思います。

 クヴェヴリを使用したワイン醸造は、醸造家の勘と経験に頼るところが大きく、品質が安定しないというデメリットがあり、特にオレンジワインの場合、その傾向が大きいように感じます。一方で、より高品質なオレンジワインを醸造しようと、数値化された欧州の最先端醸造に習い、タンク醸造などを用いて、品質の向上と安定化を図る動きが加速しています。クヴェヴリの技術と最新の醸造技術を使い分け、伝統技術を継承しながらも、高付加価値のオレンジワインを生産する醸造家の存在によって、ジョージアワインの評価は世界的に高まっています。さらに近年、オレンジワインは世界的に生産量が増加傾向にあり、日本でも生産する醸造家が増え、新潟県内のワイナリーでも生産されています。このように、世界的に認知度が高まり、本場ジョージア産の輸出も増加していることから、近い将来、赤・白・ロゼ・オレンジの「ワイン4種時代」の到来が期待されます。

 クヴェヴリによるワイン醸造は、2013年、ジョージアの伝統的なワイン造りの手法として、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。クヴェヴリの陶器職人とワインの醸造職人が連携して、約8000年もの間、同じ道具と技法が脈々と継承されてきた地場産業は、世界広しといえども、おそらくジョージアだけかと思います。世界のワイン産業におけるユネスコ登録は多数存在しますが、ブルゴーニュの「クリュ(畑)」、ボルドーの「街並み」など、その多くは景観が評価対象となっており、ジョージアはワイン産業界で唯一、「ワイン醸造法」で登録されたのです。旧ソ連時代まで、ほとんどは地酒として国内で消費されていたため、あまり馴染みの無かったジョージアワインは、近年、ワインの聖地としてあらためて認識されており、世界中のワインラヴァーがジョージアのワイン醸造家を訪ねています。伝統産業の継承や産業観光のあり方を学ぶ上でも、今後注目していきたい産地であり、一度は訪問してみたい場所です。

[第166号] 暮らしに息づく文様

 人々の暮らしの中に、彩りを添える文様。古代より、様々な文様が器や装飾品などに描かれてきましたが、当初は動物や人物のモチーフが中心でした。紀元前2500年頃、メソポタミア文明の金製品(鍛金)は、牛などの動物、紀元前1300年頃、古代エジプトの金製品(鍛金)は、ツタンカーメン黄金のマスクなどの人間がモチーフとなって、華やかな黄金文明を構築しました。さらに、紀元前1000年頃、古代中国では青銅器(鋳金)が最盛期を迎え、龍や鳳凰など、シンボルとしての意味が込められた動物の文様が現れ、後の日本の伝統文様に大きな影響を与えたのです。さらに、植物の文様が初めて登場したのは、紀元前500年頃、古代ギリシャの建築を象徴する柱頭装飾です。植物文様の登場によって、古代の人々の感性は大きく刺激され、文様に対する意識が高まり、以降、植物を模した表現は多彩に広がり、大きな進化を遂げていきます。

 古代より、欧州で最も使用されている文様は、葉薊(はあざみ)の一種である「アカンサス」です。上述の古代ギリシャの柱頭装飾で初めて使用された文様ですが、以降、世界における柱頭装飾の基本形式となって現代に受け継がれ、日本でも国指定重要文化財である日本橋・三井本館をはじめ、全国多数の柱頭装飾に使用されています。また、建築のみならず、工芸、家具、絨毯など、様々なジャンルにも用いられていることから、花言葉は「芸術」「技巧」であり、私たちものづくりに携わる者にとって、まさにデザインの原点とも言えます。アカンサスは、日本おいて馴染みの薄い植物ですが、地中海沿岸を中心に分布する大型の常緑多年草で、アカンサス文様の発祥国であるギリシャでは、国花として指定されています。

 日本の文様が発展する上で、飛鳥・奈良時代は重要な時代区分となります。唐の進んだ文化を学ぼうと遣唐使を派遣し、その留学生によって茶、薬、仏教などと共に、文様も奈良へ移入されました。それらは、日本には存在しなかった感性豊かな文様であり、その後の日本文化の発展に大きな影響を与えました。その代表格は、「唐草(アラベスク)」です。「唐」から持ち込まれた「草」の文様であることから、「唐草」という名称が付けられました。起源は古代オリエントで使用された曲線の文様ですが、古代ギリシャにおいて文様として確立し、シルクロードを経由しながら国ごとにアレンジされ、シルクロードの終着点・奈良へ伝わったわけです。蔓性の植物をイメージしており、生命力が強く、途切れることなくその蔓を伸ばしていくことから、一族の繁栄や長寿を意味する吉祥文様です。その縁起の良さから、唐草文様の風呂敷は日本のロングセラーであり、日本を代表する文様として親しまれています。

 19世紀、イギリスで活躍した近代デザインの父・ウイリアムモリス。文様という概念があまり浸透していない世の中、そのあり方を広く世界へ知らしめた功労者です。当時、産業革命の影響で機械化大量生産が浸透し、安価な粗悪品が氾濫していた世の中、「生活に必要なものこそ、美しくあるべき」と説き、生活と芸術を統一する「アーツ・アンド・クラフツ運動」を展開します。その活動の中で、自然の樹木や草花をモチーフとした新感覚の文様を次々と生み出し、家具、壁紙、カーペットなどのインテリア製品に用いると共に、伝統技法の復興にも尽力しました。人間の手仕事による、自然に根ざした美しい文様を追求するモリスの思想は、欧州ではアールヌーボーへ、そして、日本では柳宗悦の民芸運動へと引き継がれ、文様の発展のみならず、手工業の発展にも多大なる功績を残しました。

 ギリシャの雅やかな唐草が、簡素化され日本の唐草へ変換したように、文様はその国によってアレンジが加えられているものの、古来より東西の文化で隔たることなく融合し合い、世界中の人と人との心を繋げ、現代の私たちの暮らしの中に息づいています。工芸の世界においても、世界中で様々な文様が器の表面に描かれましたが、無数に存在する文様の一例として、「とんぼ(勝ち虫)」「ひさご(無病)」「うろこ(再生)」「ぶどう(子孫繁栄)」「雪(豊作)」などが挙げられます。それらの文様の由来をさらに深掘りすると、文化や風習から生まれた歴史的背景、天災や戦争などの社会的背景などがあり、そこには世界平和、家内安全、心願成就などの先人たちの想いや願いが込められています。文様とは、その想いや願いが形となって生活に溶け込み、視覚的に人の心情に訴えるものであり、そこからは心穏やかに豊かな生活を送るための先人たちの知恵が浮かび上がってくるのです。

[第165号] 魂を吹き込む表現 古代中国の青銅器

 人類が初めて石器を開発したのが、約330万年前とされています。考古学では、そこから「旧石器時代」と称していますが、さらに「中石器時代」「新石器時代」を経て、紀元前3000年頃、金属を道具として使用する初めての時代区分「青銅器時代」が始まります。古代メソポタミアにおいて銅に錫を約10%配合させた合金「青銅」が開発され、単体の金属より強度が増したことから、主に武器や農工具などを製作。以降、古代オリエントの広域に鋳造技術が伝わると、本格的な青銅器時代に突入し、次の「鉄器時代」へ移行する紀元前1200年頃まで続きます。生活道具が石器から青銅器になったことで、軍事的優位性、農業生産効率の向上が高まり、農耕民が集住して出来た都市は国家を形成するなど、青銅器の存在は、古代文明の発展に大きな影響を及ぼしました。青銅器は、石器では不可能であった複雑な形状を創り出すことが出来たため、社会を大変革させる無限の可能性を秘めていたのです。

 武器や農工具としての青銅器の技術が、古代中国へ伝わったのは紀元前1700年頃です。青銅器時代の始まりから1000年以上経過していましたが、酒器や食器など、工芸品的要素を加えた新たな青銅器を開発し、青銅器時代史上、比類の無い発展を遂げました。その技術力の高さは現代の知見を超えており、特に繊細な文様の付け方などは、現在の鋳造技術の専門家でさえ、どのように製作したのか、詳しくは解明出来ていません。青銅器時代の最古の遺跡は、王朝が存在した「二里頭遺跡(河南省)」ですが、周辺で原材料の銅などは産出されておらず、遠く1000km以上離れた地域から運ばれてきました。材料調達から製造に至るまで、全ての工程を賄うためには、国家組織でなければ成り立たず、青銅器の所持は権力を持った支配者層に限定され、権威の象徴となりました。

 古代文明において青銅器は重要な役割を果たしましたが、各文明によって製作の目的は異なります。古代オリエントの主な製作は、武器や農工具であったのに対し、古代中国での主な製作は、「祭祀」に使用するための酒器や食器など器物でした。農工具や武器は、装飾性より道具としての機能が優先されましたが、古代中国では神と人が融和する「祭器」であることから、徹底して芸術的要素を加えることに注力していました。つまり、この製作目的の相違が、青銅器の技術レベルの差に繋がったと考えられます。なお、古代中国の青銅器時代では、戦争・農耕などの万事が占いの対象となり、国王が主宰者となって神意を占い、その占い通りに政策を決定する「祭政一致」の神権政治でした。人々は神への畏敬と信仰心が極めて強く、その神を崇めるための儀式として祭祀が行われていたため、青銅器の製作には並々ならぬ情熱が表現されており、もはや神秘的な世界観が漂っています。

そのような背景から、青銅器に表現される文様も単なる装飾の域を超えており、高度な技術力を駆使した、極めて繊細で緻密な文様が施されています。基本的には、神への崇拝を背景とする空想上の動物が表現されており、最も多い文様が、怪獣の顔面を文様化した「饕餮文(とうてつもん)」です。神を象徴する文様であり、最も格の高いモチーフとして大流行しました。そして、中国を代表する伝統文様である龍・鳳・麟・亀の「四霊(しれい)」の中で、「龍」と「鳳」が青銅器の文様として多用されました。「龍」はあらゆる動物の祖とされ、原形は蛇や鰐に求める説があり、動物の頂点に君臨する最高の吉祥として崇められています。そして「鳳」は鳥の王であり、雄は「鳳」、雌は「凰」と称されます。太平な世の時にだけ姿を現すとされ、鳳凰が飛ぶ時は、その徳によって天災や人災は起こらないとされました。

 祭祀用として開発された食器と酒器は、現在の生活道具の原形となる形状が数多く顔を揃えています。それらの器の数々は、今の私たち伝統工芸の意匠のルーツとなっており、その形状を学ぶことは、ものづくりの原点を知ることにも繋がります。また、古代中国の青銅器時代に漢字が生まれ、青銅器に文章を刻む風習も生まれました。当時、銅を「金」と称していたことから、青銅器に刻まれた文字を「金文(きんぶん)」と称しています。「子孫代々、永年に渡り宝のように大事にしなさい。」と刻まれている金文もあり、この頃から、銅器を代々受け継いでいくという風潮も生まれました。以前、社員研修として日本有数の中国青銅器コレクションの一つ「根津美術館(東京・南青山)」へ、職人と共に訪問したことがありました。銅器から溢れんばかりの気勢を感じ、古代中国の銅器職人たちのものづくりへの情熱に深く感銘を受け、ますます製作意欲を掻き立てられたことが、今も脳裏から離れません。

[第164号] 薬罐から湯沸へ、心豊かな生活を支える道具

 お茶は奈良時代に最澄と空海らの遣唐使が、大陸から茶の種子を持ち帰ったことが日本での始まりとされています。当時、茶葉を蒸して突き固めた団茶を使用しており、それを煮出して飲んでいましたが、鎌倉時代に入ると、栄西が中国・宋から抹茶を持ち帰り、お湯を加えてお茶を飲む風習も生まれました。いずれも嗜好品ではなく薬として飲用されており、お湯を沸かす道具は銅や鉄の茶釜や鍋などが使用されていましたが、同じく鎌倉時代、茶釜の代用として、注ぎ口と持ち手の付いた薬罐(やかん)形状の素焼き土器が登場し、これが薬罐の原点とされています。鎌倉時代末期には、武士階級を中心に薬でなく嗜好品としてお茶を楽しむ風潮が生まれ、安土桃山時代に入ると「茶の湯文化」として日本茶文化は大きく開花します。そして、江戸時代初期、中国から煎茶と急須が移入されると、次第に庶民もお茶を楽しむ文化が育まれ、そのような背景から、1700年〜1800年にかけて全国各地で銅や鉄の素材を使用した薬罐が開発され、次第に日本人の生活道具として根付いていきます。

 江戸時代、日本は世界一の銅産出国であり、全国各地で銅が産出されていましたが、その銅の多くは大阪に集められ、当時、世界最大の銅精錬工場「大阪銅吹屋」にて、精錬されていました。その銅は全国の各藩に運ばれ、銅器職人に渡りましたが、一部の銅はオランダと中国などにも輸出され、長崎の輸出額の半数を銅が占めていた時期もありました。大阪銅吹屋の周辺では、延べ人数で1万人以上の銅器職人が存在し技を競い合っていたとされ、大阪は銅器産地として大いに栄えていました。江戸時代初期は銅貨製造や銅細工が中心でしたが、1700年以降、庶民生活にも深く関わるようになり、薬罐を中心とした生活道具の製作も始まりました。現在、大阪の銅器職人はほとんど残っていませんが、江戸時代の大阪の銅器職人は、渡り職人として全国各地へ移住して銅器製作を行ったことから、薬罐製作も各地で行われ、次第に日本人に欠かせない生活道具として根付いていきます。

 玉川堂は1816年の創業で、当時は「也寛屋(やかんや)覚兵衛」という称号で、地元住民のための薬罐を主力商品とし、銅器製作を行なっていました。近郊の弥彦山から銅が産出され、燕は銅器産地として発展していきますが、一時期は、大阪から日本海経由で銅が運ばれていたものと思われます。この燕銅器のルーツは仙台にありますが、さらに遡ると大阪になります。仙台藩には当時銅器職人が多数存在しており、現在の仙台市にあるリフォーム会社(株)タゼンの当時5代目(現19代目)もその一人でした。1750〜60年代、タゼン5代目から銅器製作を学んだ藤七(とうしち)という渡り職人が1768年に燕へ移住し、燕に薬罐などの銅器製法を伝えたことから、彼は燕銅器の祖とされています。タゼン19代目によると、タゼン初代は大阪の銅器職人で活躍した後、渡り職人として大阪から仙台へ移住しており、藤七は浄土真宗の繋がりで仙台から燕へ移住したとの説が有力で、このような背景から推測すると、江戸時代の寺檀制度以降、仏教のネットワークで庶民の移住が盛んに行われ、結果、銅器の技術も全国へ広まったと考えられます。

 「やかんや」から始まった弊堂は、200年以上、薬罐を主力商品として事業を営んできました。江戸時代までは名称を「薬罐」としていましたが、明治時代に入り「湯沸」と名称を改めました。伝統工芸業界における「薬罐」の名称は、銀器工房は「銀瓶」、鉄器工房は「鉄瓶」が一般的ですが、銅器工房は銅瓶と称さず「湯沸」が一般的です。弊堂の湯沸の特徴は、大きく3つ挙げられます。①お湯がまろやかに。殺菌作用によって水の浄化をする作用があり、お茶やコーヒーに最適です。②熱伝導の良さ。鉄の5倍、ステンレスの25倍の熱伝導によって、お湯が早く沸きます。③乾拭きをすることで色合いが深まる。私が長年、様々な銅器を使用してきた中で、湯沸が最も色合いが深まると感じています。中火もしくは弱火で使用し、銅器に熱が加わることでより一層の円熟味を帯び、「雅味」という言葉がしっくりと当てはまります。

 日本の茶文化の発展と共に、お茶を楽しむ道具として、湯沸は生活に欠かせない道具となりました。弊堂の湯沸は、お湯を沸かすための道具としての機能美追求と共に、銅山として燕の産業を支えた、弥彦山の雄大な景色からフォルムの発想を得ており、地域の風土と共に、約200年もの間、湯沸の製作技術を継承してきました。工芸品は地域性が反映されますが、それは風土がもたらす素材や暮らしの営みだけでなく、その風土によって豊かな感受性が育まれ、器のフォルムにも表現されるものです。使うほどに色合いが深まる弊堂の湯沸。代々愛着を持って継承され、親から子への心の架け橋となって欲しいとの願いを込め、ブランドメッセージは「打つ。時を打つ。」と掲げました。常に変化し移ろう流行の中にこそ、使い捨てではない継承される道具の存在が、今ますます求められていると感じており、生活をする上で欠かせない道具の一つである湯沸の、使い込んで味わいを得ていく道具の変化の楽しみを、弊堂の湯沸を通じて感じていただければ幸いです。

[第163号] 世界のコーヒー栽培の未来を考える

コーヒー豆は、赤道を中心に南北回帰線内の熱帯地域で栽培されており、カフェや市販の豆などに使用される「アラビカ種」と、缶コーヒーやインスタントコーヒーなどに使用される「ロブスタ種」に大別され、アラビカ種が約60%、ロブスタ種は約40%の栽培割合となっています。アラビカ種は主に中南米やアフリカなどで栽培され、標高1000m以上の熱帯高地での栽培が適しています。標高が高いほど寒暖差も大きくなり、じっくり時間をかけて熟すことから、標高の高い場所の豆ほど高級とされます。同じ地域でも、標高の違い、さらには農園によっても、飲み比べると味が異なります。産地と標高のテロワールを基礎情報とし、農園単位で味の違いを楽しむことがアラビカ種の醍醐味ですが、その農園単位の需要を満たすべくカフェや専門店も増え、多種多彩なアラビカ種が日本へ輸入されるようになりました。

一方、ロブスタ種はベトナムやインドネシアなど、主にアジアで栽培されており、標高500m以下の低地でも栽培が可能で、果実の成長が早いだけでなく着実数も多く、収穫性の高い品種です。アラビカ種は斜面角度の高い山間地での栽培に対し、ロブスタ種は平地に近い緩やかな斜面での栽培のため、労働力が軽減出来、さらに「robust(力強く丈夫)」の語源通り、気候変動による温度変化や、コーヒー栽培の難敵「さび病」と呼ばれる病害虫にも強いことから、安定した栽培が可能です。酸味は無く、独特な苦味や渋みが強調されるためアラビカ種より風味は劣りますが、安価で取引され、かつ少量の豆でもコーヒー成分が多く抽出されることから、主に缶コーヒーやインスタントコーヒーの原料として使用されます。なお、カフェインの含有量が多く、アラビカ種の約2倍含まれていますので、飲み過ぎには注意が必要です。

欧米はエスプレッソ抽出が基本であり、コーヒーマシンを使用したアラビカ種の深煎りが主流で、濃厚で苦みの効いたストロングテイストのコーヒーが好まれます。また、苦味をより強調するために、バリスタによってはロブスタ種をブレンドさせることもあります。一方、日本や中華圏では、コーヒー豆(コーヒーチェリー)はフルーツであるとの観点から、爽やかな酸味を引き出す浅煎り〜中煎りが主流で、果実本来の香りを好む傾向にあります。日本と中華圏は共にお茶文化が盛んであり、お茶と浅煎りのフレーバーは相通ずるものがあることも、浅煎りが根付いた要因と考えられます。その酸味を引き出すためにはハンドドリップ抽出が最適で、コーヒーポットやドリップポットを使用する道具の文化が定着しています。日本や中華圏のコーヒー業界のトレンドとして、標高の高い上質なアラビカ種を浅煎りにし、いかに上品な酸味を追求するかが重要視されており、近年浅煎り専門のカフェが増えています。

アラビカ種の栽培技術の向上と共に、コーヒー道具の進化、さらにバリスタの技術向上などの要素も加わり、上質な豆をこだわりの道具で、高度な技術で淹れる「スペシャルティコーヒー」の向上には目を見張るものがあります。しかし、その将来を不安視する現象がにわかに現実になってきました。業界では折に触れて耳にする「コーヒー2050年問題」です。アラビカ種は、年間平均気温18~21℃での栽培が適していますが、近年の温暖化によって年間平均気温が上昇しており、これまで栽培に適していた地域での栽培が困難になりつつあります。さらに、栽培の難敵である「さび病」は数年で農園を全滅させる程の強い感染力があり、その頻発も懸念されています。それらを総合的に考察すると、2050年までに世界のアラビカ種の栽培面積は、現在のおよそ半分程度に減少するものと予測されているのです。

一方で、アラビカ種の需要は世界的に増加傾向にあり、人口増加と経済成長などの要素が重なり、2050年には、現在の約3倍の需要が見込まれています。 需要と供給のバランスが大きく崩れるだけでなく、気候変動は品質の劣化にも繋がり、中でも高品質なアラビカ種の栽培は、かなり限られた地域に限定されることから、常軌を逸した高値で取引されるのではないかとの見方もあります。このコーヒー2050年問題を回避し、持続可能なコーヒー文化を構築すべく、世界の大手コーヒー企業や団体を筆頭に、積極的な対策が行われています。短期的視点では、さび病や寿命で古くなった木の差し替え用に苗木の提供を行うことで生産の安定化を図り、また長期的視点では、産地の土壌に適合し、気候変動に対応した耐病性の高い新品種に加え、耐病性の高い肥料の開発も行われており、今後世界広域での展開が期待されます。

コーヒーは栽培地域の気候や土壌によって、地域特有のテロワールの影響をダイレクトに受ける農作物である一方、収穫後、脱穀などの生産工程が多岐に渡り、複雑かつ高度な技術力を要します。その生産工程の手の掛け具合が味にも大きな影響を及ぼしますが、近年の技術革新は目覚ましく、より高品質の生豆が生産されるようになりました。新品種の多様性を広げ、業界を挙げての持続可能なコーヒー文化への取り組み、高品質の豆を生産しようと努力を惜しまない生産者のモノづくりの精神、最高の一杯を抽出すべく日々進化を遂げるバリスタの存在。コーヒーは知れば知るほどに奥深く、多くの気付きと学びがあります。豆の栽培から一杯のコーヒーが仕上がるまでに、たくさんの人の手で情熱のバトンが繋がっているコーヒー。その情熱を感じ取り、味わいと香りの向こう側にあるストーリーに想いを馳せることも、コーヒーの味覚要素の一つであり、コーヒーの醍醐味であると言えます。

[第162号] 持続可能な価値創造を担う、これからの産業観光

  観光庁は、新型コロナ前に掲げた政府目標「2030年の訪日外国人6000万人、観光消費額年間15兆円」は、継続していく意向を示しています。2019年は過去最高の3,188万人に対し、2020年は411万人へと激減しましたが、今後の予測を総合的に解釈すると、今年はビジネス往来から徐々に訪日外国人が増加していき、大阪万博開催の2025年には2019年の90%以上の回復、3000万人程度が見込まれています。そして、2030年の6000万人という目標値は過大という見方がありつつも、アジアの経済成長に加えパスポート所得率の急増によって、達成は可能との見方もあります。中国のパスポート取得率10%は、世界最高のイギリス76%を筆頭として、世界的に見ても低い取得率ですが、中国が2030年に取得率20%へと上昇した場合、取得者は3億人弱となり、海外旅行者の分母は拡大します。さらにASEANも取得の急増が見込まれており、旅行先に日本を選択する人は多いと思われ、人気観光地が許容オーバーをとなる課題は残るものの、数字上だけで勘案すれば、新型コロナ前の倍増となる6000万人の達成は、あながち不可能とは言い切れません。

 一方で、2030年の観光消費額の年間目標15兆円は、かなり高いハードルと思われます。6000万人×1人25万円=15兆円。2019年は1人約15万円の支出でしたので、さらに1人10万円分の上乗せが必要となります。2019年訪日外国人の3分の1にあたる約1000万人は中国人でしたが、中国はコロナ禍において、若い世代を中心に自国のブランドを見直す風潮「国潮(グオチャオ)」ブームが起きており、アパレル、化粧品、日用品など、中国の伝統文化を取り入れたデザインが、大きく売上を伸ばしています。さらに近年、家電や携帯電話を中心とした製造業の技術力向上は著しく、「メイド・イン・チャイナ」から「中国ブランド」へと変革しつつあり、自国製品を積極的に購入する傾向が強まっています。特に中国人における日本での消費行動として、「爆買い(モノ消費)」が社会現象となりましたが、アフターコロナでは爆買いの傾向は弱まり、旅行消費額は減少することが懸念されます。

  しかし、新型コロナ前は、すでにモノ消費から地方での文化体験「コト消費」へと移行しつつあり、今後はコト消費において、さらに高い新たな価値を付加していけば、旅行消費額を増加させることは可能でしょう。コロナ禍において余暇活動等が制限され、世界的に預貯金が急増しており、リバウンド現象によって一時的に旅行消費額が増加することも考えられますが、一人あたりの支出額を増加させる対策として、より魅力的な文化体験、食や宿泊の提供など、コト消費の高付加価値化は、今こそ官民挙げて取り組むべき課題です。コロナ禍では、国内旅行を柱とした観光戦略に注力しましたが、土日や大型連休など決まった曜日や時期に集中しやすく、平日やオフシシーズンの需要のギャップが激しいのが現状です。それらの需要を埋め、安定的な事業運営と雇用を確保するためにも訪日外国人の需要は欠かせず、今年はアフターコロナの長期的視点に立ち、受け入れ体制の準備をより一層進めていきたいものです。

 そして、「国潮(グオチャオ)」は、経済現象でありながら文化現象でもあり、単なる一過性のトレンドとして見過ごすことなく、コロナ禍の今、対策を講じる必要に迫られています。中国は世界的に見ても文化資源が豊富であり、もともと技術王国として君臨していた国。16世紀、欧州で興った中国ブーム「シノワズリー」は、その後、日本の美術工芸にも大きな影響を与えましたが、近い将来それが再来するかのような風潮を、少なからず感じています。日本製品は高付加価値でありながら類似品が多く、他社が低めに価格設定すれば、ブランド力など特定の要素がない限り、自社だけ高い価格設定にすることは難しい構造に陥っています。中国製造業の台頭により、日本企業のブランディングの重要性は一段と増しており、価格競争からの脱却は、これまで以上に着手しなければならない社会環境に変化したと言えるでしょう。

 中国を筆頭とし、アジアの経済台頭を念頭に置き、日本におけるサービスや製品の高付加価値化をさらに推進していくために、「産業観光」は、もはや日本の地場産業には欠かせないキーワードになりました。製造業、農業などの生産現場を巡る旅では、生産現場を五感で感じることによって、製品への理解度を格段に高めます。また、お客様からのダイレクトな要望は、製品の差別化にも繋がり、高付加価値な製品を適正な価格で販売する仕組みも構築できます。お客様との親和性を高めていくことはブランディングの鉄則であり、産業観光の推進こそが、地場産業を発展させる最大の戦略であると考えています。 それを実現するためには、観光事業者と非観光事業者の連携を深め、地域を面で捉えて観光客をお迎えしていく意識作り、つまり地域全体で顧客思考を持つことが求められます。今ある地域資源を掘り起こし、生産者も含めた地域交流を行い、地域への誇り「シビックプライド」の醸成は、アフターコロナに向けた地場産業の重要な施策となります。

 国連が2030年までの達成を目指す国際社会の共通目標「SDGs」は、観光においても指標とすべき課題です。地域住民や自然環境にも配慮し、住む人も旅する人も相互に潤うことを目指す「サステイナビリティ・ツーリズム」は、観光における世界共通のキーワードとなっています。もう一つの視点として、良いものを安く提供するサービスが中心の従来型の観光では持続可能性はなく、働く人にしわ寄せが生じます。高い価値を持つサービスと適正な価格で事業を進めていくことで、住む人、旅する人、そして働く人も潤い、持続可能な観光が構築できます。地場産業製品においては、高付加価値のものを長く愛着を持って使用していただくことでモノの廃棄率を低下させ、結果、環境負荷を低減させることに繋がります。そのためには、対面による丁寧な商品説明に加え、生産現場を五感で感じていただくことが大切で、産業観光の推進はSDGsの取り組みにも結びつきます。今年2022年は、全国の地場産業の方々との交流を今まで以上に増やし、「産業観光」についての理解を深めていく年にしていきたいと、心新たにしております。

[第161号] 日本の工芸を豊かに紡ぐ干支文化

 干支は「十干十二支(じっかんじゅうにし)」の略であり、約3000年前の古代中国の思想や易にその起源を見ることができます。現代の日本において干支は、12年を1周期とする十二支のみを取り扱う風潮にありますが、本来干支とは十二支に加えて十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)を組み合わせ、60年を1周期としています。この60年1周期は、60歳で干支が一周するため、還暦のお祝いが慣例として今に続いていますが、その年の干支を様々な名称に使用する風習もありました。古くは飛鳥時代672年の干支「壬申」に起きた壬申の乱、明治元年の干支「戊辰」は戊辰戦争、大正13年の干支「甲子」に竣工された甲子園球場などがその代表的な例です。また書や工芸品にも、作者によっては作品もしくは桐箱に干支を記す習わしがあり、干支が記されているものは作品の年代が特定でき、骨董品鑑定の手がかりにもなります。

 十二支の漢字は、もとは年・月・日など時の表示を語源としており動物とは無関係でしたが、江戸時代に入ると暦を理解しやすくするために動物を当てはめ、以降十二支の漢字が今に伝わっています。江戸時代までの時刻は、日の出を「卯」、南中を「午」、日の入りを「酉」など一日を12分割していましたが、明治時代に入ると、昼12時を「正午」とし、午の刻の前は「午前」、午の刻の後は「午後」という表現に改められました。この干支の文化は、中国と日本以外にもアジア圏を中心に様々な国々で見られ、モンゴル帝国の影響を受けたロシアやイランなどにも広がっています。十二支が12の動物から成り立っていることは各国共通ですが、動物の種類に関しては国ごとに若干の違いがあり、代表的な例として、中国と韓国では「亥」は「豚」、タイとベトナムでは「兎」は「猫」として伝わっています。

 日本の伝統工芸において、十二支の図案や置物は古くから作られてきたアイテムです。主に平安時代に製作された正倉院宝物には、十二支に関連した工芸品が複数現存しており、当時の干支の図案や技術力の高さに驚かされますが、本格的に干支製品が製作され日本人の生活の中に干支の文化が定着し始めたのは、江戸時代中期とされています。その年の十二支にちなんだ製品を玄関や居間に飾り年神様をお迎えする風習が生まれ、その後時代に応じて動物の図案や表情は変化していますが、中でも明治は動物の表情に大きな変化が生まれた時代でした。鎖国が解かれ明治政府が誕生すると、殖産興業政策の重要な一環であった工芸品は絢爛豪華な海外博覧会用のものへと変化し、特に明治20〜30年代の輸出工芸の全盛期の作品は、超絶技巧と称されるほど勇ましく堂々たる動物のモチーフが主流となります。しかし輸出工芸が衰退した明治40年代以降は、馴染みやすくユーモラスな表情をした動物のモチーフが主流となり、人々の生活の中に工芸品が一層溶け込むようになります。

 ユーモラスな表情をした動物と言えば、何と言っても平安〜鎌倉時代にかけて描かれた「鳥獣戯画」の存在無しには語れません。日本最古の漫画とされ、日本は世界的に見ても古い時代から戯画の伝統を持つ国です。江戸時代には、広重・国芳・暁斎という浮世絵を代表する人物が、猫をモチーフとした愛嬌たっぷりの戯画を次々と描き、戯画ブームが起こりました。その極め付けは「北斎漫画」の登場です。動物だけでなく、人物も喜怒哀楽様々な表情を描き、その表現力と描写力は極めて秀逸で、ある種日本の美術史上最高傑作の一つと言えるかもしれません。明治40年代以降の十二支製品の表情にも北斎漫画の影響が色濃く残り、さらにはゴッホやモネなど西洋の巨匠にも大きな影響を与え、ジャポニスムを象徴する作品としても存在感を示しました。弊社の明治時代(玉川堂4代目)の図案にも、北斎漫画を連想させる図案が残っていますが、現在の伝統工芸界に与えた影響は計り知れません。

 日本人は古くから動物に宿る神秘的な力を信じてきましたが、その信仰と十二支が結び付き、年末になると十二支製品を求める風潮が300年以上も前から続いています。動物をユーモラスに表現することによって、日本の工芸にも多様性が生まれ、職人たちの感性を磨く機会にもなりました。今年2021年の干支は、組み合わせ38番目「辛丑(かのとうし)」、来年2022年の干支は、組み合わせ39番目「壬寅(みずのえとら)」です。「辛丑」は辛(枯れた状態、種を大地に還す)、丑(硬い殻から破る状態)。そして「壬寅」の壬(次の生命を育む)、寅(春の胎動)であり、厳しい冬を乗り越え、華々しく再起する年となります。まさにアフターコロナを予感させるような干支です。毎年12月13日は、正月の準備を始める「正月事始め」。すす払いや松迎えなど、13日から始めて28日までに終えると、良い年を迎えることが出来るとの言い伝えがあります。コロナ禍の収束へ向け、長いトンネルの先に光を探して歩む今を「辛丑」と捉え、来年の「壬寅」に込められた再起への祈りを込め、干支飾りを飾ってみてはいかがでしょうか。

[第160号] 生活文化としての書道を見直す

先月10月15日、「書道」を登録無形文化財として登録する答申が、文化審議会から文部科学大臣へ提出され近く正式登録されますが、これを各メディアがトップニュース級の報道として一斉配信したことから、大きな話題となっています。それまで無形文化財登録には「芸能」と「工芸技術」の2つの分野が対象とされていましたが、より幅広い日本の伝統文化を対象とすべく、今年6月、新たに「生活文化」が新設されました。さらに、既存の指定制度より基準が緩やかな「登録制度」が設けられ、この生活文化と登録制度に初めて「書道」が選定されました(同時に「酒造り」も登録)。衰退している書道の伝統文化の保存と次世代への継承に向けたこの度の登録無形文化財への登録ですが、次展開としては、ユネスコの無形文化遺産への登録を目指しています。登録に向けた推進事業を官民連携で実施しており、日本が誇る「生活文化」である書道の次代への継承に向けて今、大きなうねりが起きつつあります。

書道は、弥生時代に中国から漢字が伝来したことによって始まったとされ、その後仏教の伝来と共に写経が行われ、書家も誕生したことから、書くだけでなく観て楽しむ文化も育まれました。しかし、近年はパソコンの普及など生活様式の変化により、筆で文字を書く機会は極めて少なくなっており、書道人口は減少の一途を辿っています。伝統的工芸品である筆・墨・硯・紙のいわゆる「文房四宝」は、全国で16産地の指定を受けていますが、書道人口の減少と比例するように生産量は減少しています。中でも1000年以上の歴史を持ち、墨の全国シェア95%以上の「奈良墨」は、書道人口減少に加え墨汁の台頭によって、生産量は50年前から比較し30分の1と著しく減少しており、まさに存続の危機となっています。私は長年「奈良墨」を愛用していますが、墨の優れた伸び、鮮やかな色、リラックスする香りなど、墨汁とは全く違う触感。書道愛好家であれば奈良墨は必需品だけに、書道の登録無形文化財を契機に、さらなる産地活性化を期待したいものです。

とは言えここ最近、コロナ禍における巣ごもり需要の拡大により、書道人口は回復傾向にあるとされ、今改めて書道に注目が集まっています。文化庁による令和2年度報告書によると、書道を始めた理由として、「字をきれいに書けるようになりたい」の回答に次いで「自分なりの文字の表現を楽しんでみたい」「集中力を高めたい、 心を落ち着けたい」の順となっており、混迷する世の中にあって、気を整え自分自身を見つめ直す契機として、書道を始める方も多いようです。書道は心の浄化とも言われ、書に集中することで心の乱れを整え、精神の統一を促します。古来より書道は、仏教の経典を書写(写経)する、いわゆる修行を目的として行われてきましたが、紙に向かって文字を写すことによって邪念を払い、本来持っていた心の安定を取り戻し、清らかな自分の心に気付く機会となります。また我を無くすことも書道には大切な心得であり、手の力で書くのではなく、身体の流れで書くことが大切です。

弊社では50年以上前から、月に数回、終業後に書道教室を実施しており、現在は若手職人が中心となって書道を学んでいます。金鎚から筆に持ち替える瞬間は、新たな創作のエネルギー、「気」を生みます。弊社の書道教室では、仕事時間外で製作した職人の個人作などを入れる桐箱に品名や名前を書くこともあり、実務的な目的もありますが、主目的は気を整えることに加え、美的感性を向上させることにあります。書道は白と黒のみで構成され、いわば余白の美を追求する芸術。書道とは、白と黒のバランス感覚の追求であり、余白の重要性を学ぶことで美的感覚を養うことが出来ます。さらに、文字の美しさは上下左右のバランスによりますが、案外画数の少ない文字ほど難しいもので、このバランス感覚を養うことは造形認識能力の向上にも役立ちます。そして、書道をする時は正座、又は椅子に正しく座っての執筆となり、乱れた姿勢では良い文字は書けず、これは銅器の製作姿勢でも同様です。書道によって作業姿勢の正しさへの意識も高まり、これは作業効率向上だけでなく健康増進にも繋がるため、「健康経営」にも寄与します。

中国・漢王朝時代の揚雄(ようゆう)は「書は心の画なり」との名言を残しています。文字は書いた人の心を映し出す絵である、という意味であり、日本では古くから「字は体を表す」という格言が今に伝わっています。また、小説「雪国」で知られる川端康成は「書は老いと共に良くなりこそすれ、悪くはならない。そこが東洋の芸術としてのありがたさである。」との名言を残しており、書の得手不得手といった手筋や技術的な面とは別に、その人の性格や人間性、そして年輪が如実に表れ、人生経験の積み重ねが文字の味わいを醸し出します。年齢と共に肉体が衰えていくこととは正反対の現象であり、晩年まで趣味として楽しめる芸術と言えるでしょう。時代が大きく変化し続けても、古来より変わらず社会の基盤として存在し続けてきたのが文字であり、書道は日本文化として大切に継承されてきました。進化著しい今のグローバル社会だからこそ、日本文化の学びが重要度を増していき、日本人なら誰もが経験したことのある書道は、その最たる文化と言えます。日本人がグローバル社会の中で存在感を示し、そして人間らしく豊かな人生を歩むためにも、書道は今までも、そしてこれからも、日本人の「生活文化」であり続けていきたいものです。

[第159号] 日本酒の伝統技術に秘められた、 味覚の可能性を知る

 本日10月1日は「日本酒の日」。以前、醸造年度の始まりが10月1日であったこと(現在は7月1日)、そして、10月の十二支「酉」は酒や酒壺を意味し、また、10月は新米が収穫されて新酒が醸される月であることから、10月1日を「酒造元旦」として祝う風習が残っている酒蔵もあります。このような背景から、日本酒造中央会は1978年より、10月1日を日本酒の日として定めました。全国各地の飲食店や酒屋などにおいて様々な企画が開催されますが、今晩は日本酒の日に合わせて晩酌は日本酒で、という方も多いのではないでしょうか。10月は新酒を造り始める時期ですが、冬から春にかけて造られたお酒が熟成して飲み頃となる「ひやおろし(秋あがり)」が楽しめる時期でもあります。山の幸や海の幸などが豊富に揃い、食中酒としての日本酒が最も真価を発揮しやすい時期ですが、円熟味のある「ひやおろし」と秋の味覚の相性は抜群で、秋はまさに日本酒のシーズンです。

 日本酒は世界でも珍しく、美味しく飲める温度が5℃~55℃と、温度帯の幅広いお酒で、同じ酒が温度を変えることで風味が変わるのは、日本酒ならではの魅力です。これからの時期は燗酒の出番が増えますが、燗酒向きと言えば、純米酒と本醸造酒が挙げられます。温度を上げることでより一層、米の旨みと甘みが口の中で膨らみますが、銅器のぐい呑でも燗酒を楽しんでください。好みにもよりますが、ぬる燗(40度)から熱燗(50度)の中間である上燗(45度)辺りが適温です。銅の熱伝導の良さによる器の温もり方は、銅ならではの感覚であり、燗酒の楽しさの幅が広がります。最近、日本酒とチーズのペアリングが話題となっていますが、個人的には燗酒がお勧めです。中でもフレッシュタイプの「モッツアレラ」は、お酒の熱でチーズがとろけて、冷酒とは一味違った味覚が楽しめます。そして、究極のペアリングは、熟成酒(3年以上)の燗酒とウォッシュタイプの「エポワス」。トロリとした食感と濃厚なミルクの旨味が、極上のマリアージュを実現します。是非一度お試しください。

 日本酒は食中酒として、素晴らしい機能を発揮します。白ワインは、含有されている鉄分や亜硫酸の影響によって魚介類と反応を起こし、魚の生臭いにおいを発生させることがありますが、日本酒は鉄分や亜硫酸がほとんど含まれていないことから、あまり生臭さを感じません。また日本酒は、旨味成分であるアミノ酸が他のアルコールと比較して、非常に多く含まれていることから、魚介類の旨味成分との相乗効果によって、お互いの旨味を増幅させます。日本酒と肉料理の相性も良いのですが、特に魚介類との相性の良さは世界に誇るべきものがあります。今やペアリングは時代を象徴する重要なカテゴリーであり、日本酒の真価とは究極の食中酒の追求です。魚介類には日本酒を合わせることに特化したプロモーション活動を行い、「魚介類との最適な食中酒は日本酒である」というポジションを、世界のレストラン業界などで普及させていくことが、日本酒の世界市場拡大に繋がり、世界の名酒に通底する普遍性が構築出来るものと考えています。

 日本酒は「技術の酒」、ワインは「農業の酒」とも表現されます。ワインは原料の葡萄に由来する成分によって、味覚がほぼ形成されることに対し、日本酒の場合、原料の米や水も重要な要素ではあるものの、味覚の形成は、造り手の技術力に委ねられる割合がワインより高くなります。ワインは葡萄の価格がそのまま価格に反映されますが、日本酒は米の価格よりも、その後の醸造に掛かるコストによって価格が決まります。はっきりと区別は出来ませんが、その土壌や気候など、つまりテロワールに寄り添って葡萄栽培を極めるのがワインの醸造家、醸造の職人技を極めるのが杜氏や蔵人です。日本酒の醸造は日本古来から伝わる伝統技法であり、長年の経験と高度な職人技が要求されるため、アルコール業界では最も新規参入のハードルが高い業界と言えます。このような背景から、日本酒の文化的価値の向上や後継者育成のためにも、伝統芸能や伝統工芸の業界と同様、杜氏を対象とした「重要無形文化財保持者(人間国宝)」認定制度、酒蔵を対象とした「選択無形文化財」認定制度の確立を、国税庁と文化庁の連携によって実施されることが望まれます。

 ワインにおけるテロワールの要素はラベルに開示されており、その因果関係は比較的分かりやすく、消費者はその因果関係を読み解いて購入します。それを最も分かりやすく伝えているのがフランス・ブルゴーニュであり、ビンテージ・村名・生産者・畑の位置など、その表示内容と因果関係が細部に渡るほど、高品質な葡萄が使用されます。一方、日本酒の因果関係はテロワールだけとは言い切れず、味覚の決め手は、最終的に酒蔵の醸造に対する思想や醸造技術に左右されることから、日本酒の特性を決める因果関係はワインよりも複雑です。それ故に、日本酒は対面販売が重要であり、消費者は醸造への想いをしっかりと理解することが必要です。同じ酒米を使用しても、造り手によって味覚が大きく変わるのが日本酒の魅力。そこには、長年培われてきた酒蔵の文化、哲学が内包されており、そのものづくりの想いを知ってこそ、初めて日本酒の味覚が正しく伝わるものです。約2000年前から日本に伝わる伝統「技術」である日本酒。その技術力を味覚として味わう文化を、私たち日本人がしっかりと継承していきたいものです。

[第158号] 景徳鎮が宿す、産地と歴史に磨かれた用の美

 世界最大の工芸産地、中国・景徳鎮。世界の磁器発祥の地、また、磁器の聖地として、古くからその存在が知られています。景徳鎮の人口は約160万人ですが、市街地人口約50万人のうち約10万人が磁器産業に携わる、世界でも群を抜いたものづくりの街です。江西省の人口数5番目の都市で、最寄りの大都市は上海や杭州などが挙げられますが、東は浙江省と福建省、南は広東省という、中国茶栽培が盛んな産地に隣接しており、中国茶文化と共に発展してきた茶器の産地。特に茶杯(湯呑)の美しさと機能性は世界中の茶人を魅了し、中国茶の愛好家にとっては必須のアイテムです。景徳鎮における製造品目は、茶器・食器・花器などの工芸品のみならず、タイルなどの建築部材、洗面台などの日用品、紹興酒の瓶など、幅広い業種に対応しており、海外企業からのOEMも盛んに行われています。

 景徳鎮の磁器製造は約1900年前の後漢時代から始まり、景徳年間(1004〜 1007)に入ると、「景徳鎮窯」と称して国を挙げて磁器の製造が行われます。この景徳鎮の磁器は、1600年代、東は韓国を経て日本へ、西はシルクロードを経て欧州へと渡りましたが、青と白を基調とした宝石のような輝きは「東洋の神秘」として迎えられ、人々を魅了。競い合うように購入されましたが、次第に欧州の生活様式に中国美術を積極的に取り入れる風習も生まれ、中国ブーム「シノワズリー(中国趣味)」が興ります。さらに、景徳鎮のような磁器を自国でも生産しようと、日本や欧州でも磁器製造が開始され、伊万里(佐賀)、マイセン(ドイツ)などの磁器産地も誕生。佐賀では古伊万里・柿右衛門・色鍋島など、景徳鎮の流れを汲んだ新たな様式も生まれました。また、景徳鎮の洗練された製品は、伝統工芸の他素材の職人たちにも大きな影響を与え、その美意識は、私たち今の日本の工芸職人にも受け継がれています。

 陶磁器のことを英語で「China」、もしくは「 China  ware」と呼びますが、これは磁器の総本山という言うべき、景徳鎮製の磁器に由来します。その後も景徳鎮は磁器産地として海外博覧会などでも名声を馳せましたが、1949年、中華人民共和国の建国によって大きな転換期を迎えます。経済成長を促進すべく、国策として地場産業の機械化・工場化の推進が掲げられたことから、景徳鎮では全ての磁器工房の営業停止が命じられ、私財は没収されました。職人たちは機械化大量生産型の大規模な国営磁器工場で働くことになり、熟練の技術は一旦途切れることに。しかし、この雇用制度は景徳鎮には馴染まず、1978年、鄧小平によって市場経済が導入されると、職人たちが再生の道を歩み出し、磁器工房が復活し始めます。次第に経済成長著しい香港やシンガポールなど、中華圏の海外商社より高級茶器の要望が高まったことから、その需要に応えるべく独立開業者が急増。2000年には工房数約2500軒に達し、現在は5000軒を超えたとされています。

 中国では、北京や西安など24都市が文化遺産保護対象都市に指定されていますが、景徳鎮は唯一、伝統工芸を礎とした文化遺産保護対象都市です。そのような背景から、景徳鎮は磁器に関する大学、専門学校、研究機関などが充実しており、国立・景徳鎮陶瓷大学は学生数4万人の総合大学ですが、中でも美術学部は磁器教育機関の最高峰として、業界では有名な存在。工芸の道を志す学生が競い合う難関として知られ、景徳鎮の磁器産業の人材育成に大きく寄与しています。景徳鎮の技術は今も世界最高水準ですが、富裕層向けと大衆向けの生産二極化は顕著になっています。お茶愛好家の高級品需要を満たすべく、職人技を極める動きがある一方、近年は、大量生産向けで格安の台湾土を使用した廉価版が広く普及しています。景徳鎮周辺の粘土と台湾土を使用した製品では、見比べると雲泥の差はありますが、ネット画像では見分けが付かないこともあり、購入の際は、専門店にて現物を確認してのご購入をお勧めします。

 この磁器の素材である粘土(純白の鉱石)は、世界共通語で「カオリン」と呼ばれていますが、景徳鎮近郊の高嶺(カオリン)山が名称の由来です。高嶺山は既に枯渇状態となっているため、現在は周辺地域から素材を入手していますが、景徳鎮の磁器は薄く丈夫で、白く透き通るような磁器に仕上がることから、玉のような白さ、鏡のような明るさ、紙のような薄さ、磬のような音色などと表現されます。景徳鎮の茶杯で飲む中国茶は、まさに極上の組み合わせ。一服のお茶が持つ豊かな世界観を大切にしてきた中国人の感性が宿っており、個人的には、茶成分が凝縮されたビンテージ物の普洱茶との相性が一番良いと感じています。中国人の茶の趣味嗜好に合わせ、その時代に適応した磁器の製作技術が2000年近くにも渡り、連綿と受け継がれてきた景徳鎮。その歴史背景を学び、実際に景徳鎮の磁器を使用することは、工芸の持つ奥深さや神秘さなどを、あらためて認識する機会となります。