[第188号] 本阿弥光悦に工芸の原点を観る

本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ・1558〜1637)。どのような人物なのか、今一つ判然としない方も多いのではないでしょうか。文献が少ない上に、あまりに多彩な芸術活動を行ったことから、その生涯の多くは謎に包まれています。陶器・漆器・書の作品は、国宝や重要文化財指定を受け、中でも日本における茶碗の国宝指定2点のうち1点は本阿弥光悦の作であり、二刀流ならぬ三刀流のマルチアーティスト。日本を代表する工芸家です。東京国立博物館で開催中の「本阿弥光悦の大宇宙」をはじめ、NHK「日曜美術館」、新潮社「芸術新潮」など、ここ最近、芸術系の多くのメディアが本阿弥光悦の特集を組み、業界内では時の人として、あらためてその美的感性を見直す機運が高まっています。

本阿弥光悦が工芸の道を志したのは桃山時代。古い習慣に捉われない自由な発想で政治経済を動かした織田信長と豊臣秀吉が、中央政権のトップに君臨していた時代であり、美術工芸の世界も、そのトップ2名の意向が反映された前衛的なものづくりが行われました。日本美術史上、最も絢爛豪華な作品が輩出された時代であり、通称「桃山文化」または「桃山美術」と呼ばれています。京都で贅を尽くした高級品を求める趣味人と、それに応える京都の一流の職人によって、伝統工芸の技術は格段に向上。さらに、京焼・清水焼をはじめとする様々な伝統工芸品が京都で誕生した時代でもあり、今日の日本の伝統工芸の礎を築きました。この自由な風潮の時代に、自由な発想が受け入れられた世の中だからこそ、時代の寵児・本阿弥光悦が頭角を表したと言えます。

1615年、豊臣家は徳川家康によって滅ぼされ、桃山文化は終焉を迎えます。しかし、家康より工芸家として一目置かれていた本阿弥光悦は、京都北部・鷹峯の広大な土地を拝領し、そこに様々な分野の工芸家を移住させ、50軒以上の工房が軒を連ねる芸術村「光悦村」を創設します。本阿弥光悦はアートディレクターとして村のマネジメントを行い、職人の個性を重んじた自由な発想で工芸品を製作させ、新時代を切り拓く作品を次々と生み出していきます。中でも特筆すべきは「金継ぎ」の開発です。ひび割れした茶碗は失敗作として破棄せず、傷の補修を一つの文様として器の美しい景色と見立て、工芸としての価値を見出しました。以降、金継ぎは単なる器の修復にとどまらず、工芸の新たな美として鑑賞する風習が生まれたのです。

 江戸初期に誕生した「琳派」は、本阿弥光悦と俵屋宗達を祖とする流派です。型にはまらず自由を尊重する本阿弥光悦から、流派というイメージは湧きませんが、日本画の最大流派である「狩野派」のように、血縁や師弟関係による技術継承は行われていません。後世の絵師たちが先達の絵師に習い、その様式が途切れることなく自然発生的に数百年以上も継承され、その美意識の繋がりから、後世になって「琳派」という名称が使用されました。琳派は国内に留まらず西洋美術にも大きな影響を与え、「接吻」で有名なウィーンの巨匠・クリムトは、琳派の黄金様式に影響を受けた画家です。父が金属工芸の職人の影響もあり、クリムトは日本の伝統技法・金箔を学び、琳派の金箔を生かした絵画を次々と輩出。「琳派」に分類される代表的な外国人と言えます。

岡倉天心と共に東京美術学校(現:東京藝術大学)設立に尽力したフェノロサ(米国)は、「日本画」の名称を初めて使用した人物であり、琳派研究の先駆者でもあります。本阿弥光悦を日本最高の芸術家と称え、日本の美の方向を決定付けた人物と評し、その功績を日本人へ説いたことが、今日の「本阿弥光悦」像を創り上げました。東京国立博物館「本阿弥光悦の大宇宙」では、「船橋蒔絵硯箱(国宝)」を筆頭に代表作が展示され、様々な工芸素材、様々な美意識が表現され、とても同一人物の展覧会とは思えない多彩な作品群が並びます。しかし、深く観察するほどに同一人物という共通項が浮かんでくるという魔力。本阿弥光悦を見つめ直すことは、工芸の原点を見つめ直すことにも繋がります。人間が持つ本質的な美への希求と創造性を、工芸の将来に拓くために、その審美眼は後世にしっかりと伝えていきたいと思っています。