[第202号] 人の営みに不可欠な素材「銅」

人類が初めて使用した金属は「銅」です。BC6000年頃、メソポタミア地域(イラン西部&アナトリア東部)で出土された銅を、棒状に加工した装飾品やピンなどが世界最古の銅製品、金属加工製品であるとされ、その後、エジプトなどの周辺地域にも銅加工の技術が広がりました。それまでの人々の富は、農作物・繊維・土器など、劣化や破損しやすい物資でしたが、「銅」は劣化や破損の恐れがなく、溶かせば再利用できることから、普遍的な価値を持つ新しい種類の富として、人々の間に実用面での絶大な影響力を持って広がったのです。銅の存在によって、大規模な農業や強力な武器の製造が可能となり、銅加工の技術が盛んな地域ほど、本格的な都市形成が成され、銅器の進化と文明の進化は比例するようになります。

このように、銅が産出された地域は銅加工技術の高まりと共に発展していく中で、BC3000年頃、地中海の小さな島「キプロス島」で大規模な銅鉱脈が発見されました。この頃は、銅に錫を約10%配合することで強度を増した青銅器が発明され、工具・容器・武器などの銅器が生活必需品となり、いわゆる石器時代から「青銅器時代」へと移行した時代。当時の人々にとって、喉から手の出るほど欲しかった物が、銅だったのです。このキプロスの銅は、エジプトやローマなどの先進都市へ運ばれ、古代文明の発展に大きな役割を果たしました。その功績は現在も継承されており、キプロスの国旗は、銅の国であることを象徴すべく銅の色で表現され、「copper(銅)」の語源は、キプロス島の鉱石を意味するラテン語「キュープラム(cuprum)」であり、化学記「Cu」は、このcuprumの最初の二文字が反映されています。

日本における銅の歴史は、BC300年頃の弥生時代と比較的遅く、銅鏡・銅鐸・銅剣などが製作されましたが、一大転機となったのが奈良時代の708年です。それまで日本の銅は、中国や朝鮮からの輸入に頼ってきましたが、和銅山(埼玉県秩父市)で大規模な銅鉱脈が発見され、日本で初めて銅が産出されたのです。銅の安定的な供給は、国家戦略の重要課題として長年の懸案事項であったことから、国内での銅の産出は世紀の大発見として位置付けられ、708年より「和銅元年」と年を改めると共に、日本初の通貨「和同開珎」が発行されました。また、国威の象徴として、752年、奈良・東大寺に世界最大の銅製仏像「盧舎那仏」が9年間の製作期間を経て完成。以降、仏像や仏具の製作が盛んに行われるようになり、銅の存在は、日本の仏教の拡大にも大きな影響力を及ぼしました。

和銅山における銅鉱脈の発見は、日本の近代国家形成を加速させる契機となりました。以降、全国各地で銅鉱脈を探す動きが起りましたが、日本の銅産出の最盛期は江戸時代です。徳川幕府は鉱山開発を重要政策と位置付け、全国の各藩に対し、鉱山開発の奨励策を強力に推し進めたのです。その結果、1700年代に入ると、日本は世界の銅産出の約3分の1を占める、世界一の銅産出国へと上り詰めます。長崎からオランダへの輸出額は、銅が約80%を占めていた年もあり、銅で得た莫大な財力によって安定した政権運営が可能となり、実際に江戸時代は、戦争の無い社会が約250年間続く、世界でも類を見ない太平の国でした。世界各国における銅の技術革新は武器の製造が主であった、戦争の絶えなかったこの時代に、日本では太平の世を反映するかのように、文化的な審美を謳歌する工芸技術に注力しており、これが今日の日本が世界に誇る工芸王国としての礎となっているのです。

江戸幕府の鉱山奨励策を受け、新潟県には約15の銅山が存在しており、新潟最大の「草倉銅山(くさくら・阿賀町)」は会津藩の管轄として会津若松の金属加工産業を支え、村上藩の管轄である「間瀬銅山(まぜ・弥彦山)」は、燕の金属加工産業を支えました。燕の銅器製造技法は、仙台の職人(仙台藩)から伝授されましたが、燕の江戸時代における金属加工技術の多くは、会津若松の職人から伝授されています。当時、全国各藩において規模の差こそあれ、日常生活道具として銅製品が製作されており、銅の加工技術は、全国どの地場産業にも少なからず因果関係が見られます。銅の歴史を紐解くと、世界文化・日本社会・地域経済など、違う角度からの視点で、史実を見出すことが出来ます。そして、現代社会においては、銅はパソコン・携帯電話・車などで大量に使用されており、昔も今も人間は常に銅と共に暮らしています。銅は人の営みに必要不可欠な金属。銅という素材の歴史、そして尊さを、あらためて認識する機会になれば幸いです。