玉川堂の創業は1816年。初代・玉川覚兵衛が17歳の時、近郊の弥彦山の銅を使用して、薬罐(やかん)を主力商品とした銅器の製造を開始し、「也寛屋 覚兵衛(やかんや かくべい)」の屋号で店を立ち上げたのが始まりです。当時は主に近郊の住民向けの生活道具を製作しており、その技術は、長男・覚次郎(玉川堂2代目)へと受け継がれました。転機となったのは明治政府の誕生です。明治4年(1871年)、政府は博覧会事務局を設置し、2年後の明治6年に開催されるウィーン万国博覧会へ出展すべく、全国各地の地場産業へ出品要請を行い、その依頼が玉川家にもあったのです。明治初期の新潟県では、5名以上の職人を抱える地場産業は、織物(13軒)・瓦(4軒)・銅器(1軒)・煙管(1軒)の4種が存在し、この中の銅器(1軒)は玉川家の「也寛屋 覚兵衛」です。当時の経緯は不明ですが、この情報が博覧会事務局へ伝わり、出品要請に繋がったものと考えられます。
明治政府が誕生し、250年以上続いた鎖国政策が終焉したことで、開国による近代国家形成の道を歩み始めた日本。徳川幕府の絶大な支援によって発展してきた工芸品は、外貨を稼ぐための最重要の輸出品目として位置付けられ、万博への出品は、まさに国の権威をかけた政策でした。将軍家や大名などのパトロンを失い、失職した全国各地の職人たちにとって、万博の存在は、再び技を発揮する絶好の機会であり、一筋の光明でした。当時42歳だった2代目覚次郎にとっても、生活雑器から工芸へと技術を昇華する好機となり、目線は燕から世界へと向けられました。万博対策として覚次郎は、銅器に文様を施す「彫金」技術を新たに取り入れ、文様の図案は、近郊の三条の日本画家に依頼するなど、燕の技術の総力を結集させました。そして、来たる明治6年、ウィーン万博の出品を機に、「也寛屋覚兵衛」から「玉川堂」へと称号を変更し、出品作品には初めて「玉川堂」の刻印を打ち、その作品は、ウィーンへ向けて海を渡ったのです。
しかし、燕の技術は世界で通用しませんでした。全国各地から選抜された工芸品は、徳川幕府の支援によって発展した最高峰の技術を駆使し、日本ブーム「ジャポニスム」が興るほどの完成度の高さ。覚次郎は、技術力の底上げと共に、マーケティングの必要性を痛感し、大胆な経営の刷新を図ります。まず明治15年(1882年)、当時53歳だった覚次郎は、玉川堂の経営を長男・覚平(30歳)へ託し、覚平は玉川堂3代目に就任。次男・鉄平と三男・寅治には、語学を習得させ海外交渉を担当させました。さらに彫金担当として、高田藩(新潟県上越市)で失職した鍔師と東京の彫金師をスカウトし、鮮やかな色彩を表現すべく東京の鍍金(めっき)師も玉川堂へ招聘。さらに、工場の新築計画も同時並行で進め、新工場が竣工したことにより、万博で勝負する戦力が整ったのです。
そして、満を持して出品したのが、明治26年(1893年)、シカゴ万博です。ジャポニスム絶頂期を彷彿とする、高さ約1mの大花瓶(2個)がお披露目されました。ウィーン万博以降、明治政府の指導によって万博出品作は、大型で美術的要素を高めた絢爛豪華な文様を施すよう全国の職人に通達されており、それを体現した超大型の鎚起銅器でした。「工芸」の名称は、明治6年ウィーン万博出展の際、品別の分類として初めて使用されましたが、「美術工芸」という名称は、明治28年、このような絢爛豪華な作品(超絶技巧)によって生まれた用語であり、近年では「輸出工芸」とも称されています。こうして、覚次郎の経営体制の刷新と技術面での美術的要素の高まりが功を奏し、大花瓶は玉川堂の万博初受賞作品となり、後の大正元年(1912年)、明治天皇御大葬儀に献上されました。しかし、ひと時華やいだジャポニスムはその後長続きせず、明治33年(1900年)、パリ万博においてアールヌーボーが大流行する中、日本の職人たちは旧態依然とした美術工芸を出品していたことから、厳しい評価を受けることとなるのです。
明治34年以降、日本の工芸は「美術工芸」から再び「生活道具(趣味的工芸)」へと回帰し、玉川堂も湯沸・水注・花器などの製作へとシフトしました。しかしながら、万博で養われた知見と技術力は、万博前から格段の進化を遂げており、日本の工芸は新たな道を歩み始めます。大正、昭和(戦前まで)の万博では、時流に沿った洗練された趣味的工芸品が出品され、日本独自の文化や技術を世界に示す機会となったことで、日本は工芸王国としての地位を不動のものとしたのです。このように、万博によって工芸は発展しましたが、もし万博が存在していなければ、明治維新で失職した職人は再起の機会を失い、全国で多くの技術が失われ、現在の地場産業は全く違ったものになっていたでしょう。ひいては、玉川堂も存在していないかもしれません。つまり、私たち工芸業界において万博は、自らを顧み、視点をシフトし新たな創造を生み出す契機となる、絶大な影響力を持つものなのです。現在開催中の大阪関西万博。この度の万博を契機に、万博と工芸の関係性、そして、工芸の存在価値をあらためて認識する機会にしていただければ幸いです。