玉川堂青山店・銀座店 木目金製作実演のご案内

異なる種類の金属を重ね合わせ、その層を彫る事で表れる 美しい木目模様。
玉川堂青山店・銀座店にて、木目金製作実演を行います。
作業工程やその内容を、職人が実演を交えてお話します。
この機会に是非その技術の深さに触れてみて下さい。

【玉川堂青山店】
日時:12月16日(土)
時間:12:00〜17:00

【玉川堂銀座店】
日時:12月17日(日)
時間:12:00〜17:00

職人:玉川達士(職人歴30年)

玉川堂青山店「Japan Traditional Crafts Week 2017」のご案内

東京都内で衣食住を扱うライフスタイルショップが各々の個性でセレクトした日本各地の伝統的工芸品を展示販売するイベントです。10月27日より11月8日まで、青山店にて新潟県加茂市の伝統工芸品「加茂桐箪笥」のお盆やランチョンマットなどの小物をご紹介致します。11月3日(金・祝)には、ペン立て製作のワークショップも実施致します。また、10個スタンプを集めるとくじ引きが出来るスタンプラリーもやっています(台紙は各店舗にございます)ので、是非この機会に全国の伝統工芸品に触れてみてください。

《桐のペン立て製作》
桐箪笥と同等の高級素材で、桐のペン立てを製作します。
桐箪笥の製作技法の一部を体感して頂けます。
1回あたり50分。
・午後2時〜 1名 午後3時〜 1名 午後4時〜 2名
・参加費:500円
青山店(03-5778-3020)にて受付致します。

10月27日(金)~11月8日(水)
http://jtcw.jp/06-kamokiritansu/

[第111号]三方良しの精神に学ぶ〜近江商人

近江商人とは、鎌倉時代から江戸、明治、大正、戦前といった封建体制の色濃い時代に近江(滋賀県)で本店を置き、江戸、大阪、京都の三都をはじめとし、北は北海道から南はベトナムやタイまで進出した商人の総称です。現在の滋賀県近江八幡市・日野町・五個荘町は近江商人発祥の地とされ、中でも多くの豪商を輩出した地域として知られています。頭に菅笠(すげがさ)、道中合羽(かっぱ)を羽織り、肩には前後に振り分けた荷物を下げた天秤棒を持つことが、近江商人の典型的な行商スタイル。百貨店の高島屋、大丸、西武をはじめ、伊藤忠商事、日本生命、トヨタなどは、近江商人の系譜を引く会社であり、日本を代表する企業として今も日本経済を牽引しています。近江商人は自分の足で歩いて各地の需要や情報を仕入れ、全国規模の商品流通を展開していきましたが、こうした商いの手法は、やがて日本経済が発展していく上で大きな役割を担い、今日の経済大国・日本の礎となっています。

後に豪商と言われた近江商人のほとんどは、天秤棒1本から行商を始めて財を築きました。取扱品目は生活必需品が中心でしたが、各地を歩くことで、その土地の物産や必要としている商品情報などを収集し、市場調査を行ないました。天秤棒で担ぐ商品には限りがあるため、取引先が多くなると販売品よりサンプル品を持ち歩き、商談が成立すると飛脚、牛馬、船などの輸送手段を利用し、商品をより早くより確実に得意先へ届けました。また、初めて行商に乗り込んだ地域で商売が成功すると、その地域で店舗を構え、そこからさらに行商を行い、需要のある地域へ出店し、物流の拠点を構築していきました。近江商人同士が他の地域に乗り込めば、互いが競争相手でありライバル関係にありましたが、彼らは非常に郷党意識が強く、ある地域で近江商人の店舗が増加した場合には、「乗合(のりあい)商い」が広く行われていました。これは合資制度による企業形態で、お互いが少ない資本で事業拡大が出来、さらに各自がそれぞれ得意とする商品に特化した品揃えで、共存共栄を図っていたのです。

他の地域へ行商する場合、その地域の方々から信用を得なければ商売が成り立ちません。近江商人は一回きりの売り込みではなく、自分が見込んだ地域へ何度も出かけて行き、営業基盤を築いていきました。その信用を築くための智恵として、また、近江商人の経営哲学の一つとして代々受け継がれてきた精神が、売り手良し、買い手良し、世間良し、3つの良しの「三方良し」です。この三方とは、売り手、買い手、世間の3つを表しています。つまり商売とは、ただ商品が売れれば良い(売り手良し)のではなく、より品質が良く、より安く仕入れることで買い手にも喜ばれ、信用を得るようにしなければならない(買い手良し)ということ。さらに、売買をする当事者だけでなく、お世話になっている地域、そして、社会全体の幸福に繋がらなければ(世間良し)、商人としての信用は得られないという精神の教えを表したものが「三方良し」です。自分の利だけではなく、常にお客様や地域社会の発展のことを考えて商売をするという、近江商人の商道徳の真髄がここに示されています。

近江商人のもう一つの経営哲学が、「陰徳善事(いんとくぜんじ)」です。人に見えるところで、人のために行われる行為を「陽徳」と言い、人に知られないよう、人のためになる行為を「陰徳」と言います。善いことであっても、売名行為や自己顕示のためにやっては人から信頼は得られず、人が見ていなくても、知らなくても、地域社会のために尽くすことが大切と説いています。近江商人は行商で得た利益を行商でお世話になった地域へ還元すべく、治山治水、道路改修、貧民救済、寺社や学校教育などへの寄付を盛んに行い、地域に溶け込む努力を懸命に行っていました。全国各地に近江商人が寄付した橋などが残っているのは、その地域に貢献し根付こうと努力した証しです。自らの利益のみを追求することを良しとせず、地域社会の発展をも願う「三方良し」「陰徳善事」の精神は、後に多くの企業の経営理念の根幹となっています。

創業100年を超える日本企業は約26,000社存在しますが、これは世界第2位のドイツの約10倍にも上り、日本の長寿企業の数は世界でも群を抜いています。それらの企業に共通するのは、「事業の永続」を最大の経営理念としたことです。その軸となったのは、短期的な己の利を追求するという戦略は取らず、低成長であっても売り手と買い手が共に満足し、そして、地域社会と共存していく道を選ぶという、三方良しの精神を踏襲することでした。商売に社会性がなければその商売は永続しないという理念のもと、長期的視点に立ち、永続性の尊重によって日本は世界最多の長寿企業を輩出してきたのです。このように日本やドイツなど長寿企業の多い国に見られる、従業員、お客様、取引先、地域社会などの関係性を重要視する経営スタイルをライン型資本主義と言いますが、一方で米国や英国中心に見られる、金融市場から資金を調達し、株主利益の最大化を優先させる経営スタイルをアングロサクソン型資本主義と言います。日本は近江商人の精神を踏襲し、ライン型資本主義を尊重してきたことで、世界に冠たる長寿企業国家を構築してきたのです。

近江商人は商いに関わる全ての人を大切にする経営を行い、お客様との継続的な関係を重視してきました。そのために、寺子屋などの初等教育の充実による人材育成を積極的に行い、健全な人材開発を行うことでも社会貢献を行ってきました。さらに、仲間定法という事業永続のための仕組みを作り、過当な競争を避けながら、法令遵守や紛争回避による健全な商行為を推進することで、常に共存共栄を図っていました。これらは現代で言うCSR(企業の社会的責任)であり、事業の永続性の確保にはCSRが不可欠であるという哲学が、既にこの時代から垣間見ることができます。最近になって、マイケル・ポーターをはじめとする欧米の経済学者も、社会貢献とビジネスの一体化を提唱するようになりましたが、これはまさに近江商人の考え方。自社の利益だけでなく、顧客満足や地域社会への貢献も大切にし、社会の持続性を重視していく会社経営のあり方が、これからの世界経済全体に求められていることであり、敷いては世界平和にも繋がっていくものと考えています。

[第110号]日本の戦後復興を支えたデミングの品質管理

1945年(昭和20年)、第二次世界大戦で日本は連合国に敗戦した後、1952年までの7年間は米国の占領下(Occupied)にありました。そのため、その頃日本で作られた製品は「Made in Japan」ではなく、「Made in Occupied Japan」と刻印されており、日本からの輸出品にはその刻印を付けるようGHQ(連合国最高司令官総司令部)から命じられていました。しかしながら、当時のオキュパイドジャパン製品は安物で故障が多く、粗悪品の代名詞とまで言われていました。例えば軍用品の場合、部品の品質や規格のばらつきに起因する故障や、修理の不可等様々な問題があり、品質を一定に保つ事や大量生産することは不可能な時代でした。そんな戦後の焼け野原の中で、日本の製造業が輸出を増大し経済復興を遂げるためには、品質への信頼性を上げる必要があると説いた人物がいました。それがアメリカ人のエドワード・デミングです。PDCAサイクルと呼ばれる品質管理の概念を日本の製造業に浸透させ、戦後復興への大きな原動力を生んだ人物です。彼の出現により、戦後数十年後の70~80年代には、Made in Japanの製品は世界でも最高品質のブランドとして認知されるほど、その品質に於いて目覚ましい進化を遂げることとなったのです。

戦前の経営理論で優勢だったのは、フレデリック・テイラーが唱えていた「科学的管理法」でした。別名テイラーシステムとも言われ、時間と作業効率を科学的に分析・管理し、工場のラインに組み込む大量生産のシステム。経営者や管理職が作業方法を設定し、現場の作業員は決められた作業を確実に実行するというものです。この理論を取り入れ、飛躍的に企業成長を遂げた代表的事例がアメリカの自動車会社・フォードです。フォードはテイラーの理論をもとにフォード生産方式を確立させました。アメリカは世界一の工業国であり、大量生産型がものづくりの王道であったため、陽が当たっていたのはテイラーの理論であり、一方でデミングの理論を受け入れる経営者はほとんどいませんでした。しかし戦後の日本は国を復興させる中で、アメリカでは注目されていなかったデミングの品質管理の理論に着目したのです。デミングの理論は「人間の感性」に訴えており、元来日本人が持つ手技を活かした付加価値の高い製品を作りたいという日本独自の気質がデミングの理論にマッチしたのでしょう。アメリカで日の目を見なかったデミングの理論は、日本で見事に開花したのです。

デミングは管理図法や抜き取り検査法などの「統計的手法」と合わせて、 品質管理の基本的な考え方である「デミングサイクル(PDCAサイクル)」という考え方を日本に伝えました。デミングサイクルとは、1.Plan(計画)→ 2.Do(実行)→ 3.Check(評価)→ 4.Act(改善)のサイクルを廻しながら品質の向上を図り続けることで、4.Actを終えたらすぐに1.Planへと繋げていきます。1.Plan:製作方法を〇〇にすれば機能性が高まるのではないか、との仮説(計画)を立てる。2.Do:Planに沿って試作を行う。3.Check:試作結果を確認する。4.Act:分析して良いところは残す。そして、再度1.Planへ。これをエンドレスに繰り返して渦巻き状に上昇させていく(進化していく)こと、これがデミングサイクルです。このサイクルを廻すのは人間の「感性」です。常に意識的に現状を見極め、工程のより良い改善と品質の向上を念頭に、考え行動し続けるのです。このサイクルを廻し続けるメーカーと廻さないメーカーでは、品質向上(製品向上)に雲泥の差が付くというのがデミングの教え。これらデミングが伝授したことを日本の製造業が吸収し、さらに進化させ、TQC(全社的品質管理)、QCサークル、カイゼン、トヨタ生産方式などが生まれ、日本は世界一高品質な製品を製造する国にとして認知されるようになったのです。

デミングはアメリカの連邦国勢調査局の統計学者で、GHQの要請を受けて来日しました。そこで品質管理に関する講演会を行い、日本の多くの経営者や技術者を前にして品質管理の重要性を説いたところ絶大な反響があり、参加者はこぞってデミングの理論を自社に取り入れました。さらに講演の内容をまとめた本も飛ぶように売れたため、その印税を基金として、品質管理の進歩に功績のあった個人や企業に贈る「デミング賞」が、来日の翌年1951年に創設されたのです。以来66年間に渉って品質管理の世界最高峰の賞としての権威を誇り、その受賞企業の管理手法は公開され、それを学んだ他の企業がより工夫をこらし自社に活かすという風に、日本の製造業の品質管理レベルは人々の意識と共に向上したのです。そして1987年には品質マネジメントの国際規格であるISO9001が創設されました。デミング賞は成果に対する表彰制度ですが、これに対しISO9001は取得後、半年または1年の維持審査があり、システムが有効であるかを確認し、基準に達しなければ取り消しもあるという継続性を評価するシステムです。このISO9001もデミングサイクルをベースに構成されており、彼の品質管理の教えは今後も、日本の製造現場の品質を担う根幹として息づいていくことでしょう。

トヨタは、デミング理論を取り入れ世界的な自動車メーカーへと成長した代表的事例です。1955年(昭和30年)に本格的な乗用車であるトヨペットクラウンを発売し、2年後にはトヨペットコロナを発表。それに応じて工場の人員を大幅に増加させ、生産量は一気に7倍となりました。しかし、品質管理が追いつかず様々な不具合が表面化し、一時輸出停止という事態を招きます。品質管理の刷新は喫緊の課題となり、そこでトヨタはこのデミングの理論を製造現場に導入し、根底からその管理方法を見直したのです。この品質管理の考え方や効用についての認識は全社的に広まり、「品質は工程で造りこむ(自工程完結)」という有名な言葉も誕生しました。1966年度の会社方針では「オールトヨタで品質保証」をスローガンに、社内の総合管理体制をさらに充実させることに重点が置かれ、グループ会社にもデミングの理論を導入させました。トヨタグループのスタッフ全員が参加し、一人一人が品質保証の主役として品質改善を図ったのです。こうした取組みが評価され、1970年に企業初のデミング賞を受賞し、トヨタ自動車は名実ともに世界が誇る自動車メーカーへと発展を遂げました。

「Joy of Work(働く喜び)」という言葉があります。デミングが日本へ品質管理の理論を伝授した時、「Joy of Work がなければ、PDCAも廻らない」と説きました。責任を担う意志を持つ個人が、自分の仕事と他人の仕事の繋がりを意識して、チームとして目指すべき成果目標を認識、協力して学習し、新しい知恵を生み出す人材とその組織環境を確立させることがデミングの品質管理の目的です。一人一人が仕事を進めていく中で人間的に成長を実感し、「働く喜び」を感じながら責任を担う企業風土を創り上げることで、PDCAも潤滑に廻っていきます。残念なことに、近年世界に広がるエアバッグ問題、免震ゴムの性能偽装、止まることを知らない食品偽装など、品質に関わる問題が社会現象となっており、日本のものづくりの根幹を揺るがす問題が頻発しています。品質とは、製品の品質だけを指すものではなく企業活動全体の質を問うものであり、その在り方が製品の品質として表れるのです。戦後、粗悪品しか作れなかった時期にデミングの存在が経済復興に大きな役割を果たしたこと、私たちは今改めてこの理論を再確認し、日本人が必死になって品質向上に励んでいた戦後復興期のものづくりの精神を見つめ直す時期ではないかと思うのです。

玉川堂銀座店・青山店 彫金実演販売会のご案内

9月15日(金)16日(土)17日(日)の3日間、玉川堂銀座店と青山店に於いて、玉川堂唯一の彫金師早川常美による彫金カップの実演販売会を行います。鏨(たがね)と金鎚で銅板にリズミカルに打込まれる一打ち一打ちがいつの間にか美しい絵柄となって立ち表れるその技は、銅板の絵師とも言えます。是非この機会に間近でその手技の深さを感じてみて下さい。

《銀座店》

日時:9月15日(金)
時間:16:00〜20:30

《青山店》

日時:9月16日(土)、17日(日)
時間:12:00〜17:00

※ 限定販売品のお知らせ

当日実演を行う彫金カップを数量限定にて販売致します。

ビールカップ 風神雷神(350ml)2本組(単品販売可)
ビールカップ 鳥獣戯画(250ml)2本組(単品販売可)

第5回 燕三条 工場の祭典 ワークショップのご案内

10月5日(木)〜8日(日)「第5回 燕三条工場の祭典」を開催します。今年で第5回目となる今回は、耕場(農園・農場)と購場(販売店・ショールーム)を含む103拠点のKOUBAで祭典を盛り上げます。この機会に是非、燕三条のものづくりに触れてみて下さい。

《 玉川堂 工場の祭典イベント①-ぐい呑製作体験のご案内 》

毎年ご好評頂いているワークショップを本年も開催致します。
職人の指導のもと、お好きな形のぐい呑を製作していただきます。
一枚の銅板から打上げ、焼き鈍し、錫引き、着色と一通りの体験が出来ます。

日時:10月7日(土)、8日(日)

時間:10:00〜16:30頃

人数:各日10名様

参加費:税込8,000円(昼食代込)

※ ご予約について

■予約受付期間
8月31日(木)〜9月8日(金)まで

■予約方法
メール info@gyokusendo.com にて受付けます。
お名前、ご住所、携帯電話番号、希望日、参加希望人数を記載の上、お送り下さい。
希望者多数の場合は抽選となります。9月9日(土)以降、メールにてご連絡致します。
尚、初めての方を優先とさせて頂きます。

 

《 玉川堂 工場の祭典イベント②-小皿製作体験のご案内 》

銅板を叩いて小皿を作ります。各回とも先着順となりますので、当日のご見学時にお申し込み下さい。

日時:10月5日(木)、6日(金)

時間:5日 ①13:30〜 ②14:30〜 ③15:30〜
6日 ①10:30〜 ②13:30〜 ③14:30〜 ④15:30〜

人数:各回5名様

参加費:税込1,000円

[第109号]ビジネスの好機はシンガポールにあり

シンガポールは東京23区とほぼ同じ国土面積で、人口は約560万人という非常に小さな国ですが、6人に1人が100万ドル以上の金融資産を保有し、富裕層が集まる国として知られるスイスや香港を抑えて、富裕層の割合は世界一です。また、世界有数の低税率の国であり、2008年には相続税が廃止され、海外企業や富裕層が集まりやすい国と言えます。人種の構成は、中華系約74%・マレー系約13%・インド系約9%など多民族国家となっており、そのうち約35%は外国人という、外国人比率の高い国です。今年で建国52年という歴史の浅い国ですが、それ以前は100年余りの間イギリスの植民地であり、地理的に東南アジア・東アジア・中東・オセアニア・ヨーロッパを結ぶ中心地として、古くから東西貿易の拠点として発展し、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、中国やインドから多数の移民が移住し、現在のシンガポール人のルーツとなりました。開国以来、急速に経済成長を遂げ、香港・韓国・台湾と共にアジア四小龍と称され、シンガポールはその代表格であり、さらなる経済発展が期待できる国として注目されています。

シンガポールは、世界銀行が発表する「世界で最もビジネスに適した国」のランキングにおいて9年連続1位を獲得するなど、常にトップクラスに位置付けられ、また、「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドン・ニューヨーク・東京・パリに次ぐ世界第5位に位置し、世界の有力企業が次々とシンガポール進出を果たしています。その進出の最大の理由は、アジアのハブとしての魅力です。ASEAN諸国の中心という地の利を最大限に活かすべく、古来より海上を行き来する貿易船の拠点として発展してきた歴史を持つシンガポールは、世界有数のコンテナ取扱量を誇る港湾施設の設備や、機能性・利便性に富んだ空港など、陸送・海運・空輸などの全てのインフラが、近隣諸国と比較して格段に整備されています。また、シンガポールの様々な優遇制度も海外企業にとっては魅力的で、法人税率は最大17%と低く、キャピタルゲインは非課税です。会社設立も容易で、100%独資(個人株主・会社株主)が認められているほか、法人を設立して3年間は、税額控除による軽減措置も受けられます。

シンガポールが掲げる国家目標のひとつに「グローバル・タレント・ハブ」があります。 「ヒト=人材のハブ」を目指すという国家戦略です。 国自体が東京23区ほどの面積しかなく、人口の増加にも物理的な限界のあるシンガポールには、世界中から国の経済発展に寄与する優秀な実業家・研究者などを国内に囲い込むべく、緻密な戦略が敷かれています。金銭的なサポートだけでなく、ビザ手続きの簡素化や人材獲得に関する税制優遇制度など、ありとあらゆる手段を駆使して、高度な能力を持つ人材の獲得を目指しています。 この国策としての人材育成は、シンガポールを拠点とする海外企業にも優秀な人材が確保できるというメリットがあり、人材確保に苦心する海外企業にとっては、事業を成功させる上で大きなアドバンテージとなることは言うまでもありません。また、シンガポール国立大学はアジアトップの大学ランキングで知られており、国内全体的に高水準の教育が実践されているため、知識豊富で優秀な若年層が多く、国内企業の発展に大きく寄与しています。

シンガポールに住む日本人は現在約37,000人おり、その大半が駐在員とその家族です。シンガポールへ進出している日本企業は、シンガポール・ジェトロ調べによると約1,600社ですが、少なくとも2,000〜3,000社は存在しているとのこと。2002年、日本とシンガポールの間で「新時代経済連携協定」を結び、関税撤廃など両国間の人・資本・サービスなどの連携が深まる中、日本企業のシンガポール進出は年々加速しています。日本食もシンガポールではかなり浸透しており、シンガポールの飲食店約7,000店のうち約1,200店が日本食の店で、実に6店舗に1店舗が日本食の店ということになります。特にラーメンは大ブームを巻き起こしており、日本の有名店が続々と進出し、今や200店舗以上のラーメン店が凌ぎを削る、日本国外では世界一のラーメン激戦区になっています。飲食関連の新潟企業のシンガポール進出は「富寿し」と「ラーメン三宝亭」が代表格ですが、「富寿し」はシンガポールの日本食ブームに乗り市内に4店舗を構え、「ラーメン三宝亭」はシンガポール進出後、すぐに2号店を開店。行列に並ばないと入店できないほどの人気店となっています。

シンガポールは日本の地場産業製品を売り込むには最適な国であり、「やる気のある自治体が組んで、スピード感を持ってシンガポール市場に打って出たい」という、当時の佐賀県武雄市長・樋渡啓祐氏の呼びかけで、2013年、7自治体が共同出資によるシンガポール事務所を開設しました。7自治体=佐賀県武雄市・鹿児島県薩摩川内市・福岡県大刀洗町、福岡県鞍手町・香川県宇多津町・富山県南砺市・新潟県三条市と燕市が出資する第三セクターの燕三条地場産業振興センター。シンガポールを中心としたASEANへの特産品の売り込みや、各自治体の観光客誘致が狙いで、同事務所には武雄市職員1名が駐在し、日々、市場開拓に奮闘されています。また、事務所の徒歩数分圏内には、シンガポールの大手訪日旅行会社があり、シンガポール事務所との連携事業も行っています。私たち燕三条の事業事例としては、シンガポール・燕三条イベント開催やシンガポール富裕層の燕三条訪問などがあり、シンガポールと燕三条の連携に大きな影響力を発揮しています。

燕三条の主要メーカーは、シンガポール東急ハンズなどでキッチン用品を中心に販売していますが、弊社は今月からシンガポールのセレクトショップとの直接取引が始まり、中心街のダウンタウンコアにて、茶器や酒器など常時100点ほどの商品を販売することになりました。燕三条はシンガポール事務所が設置されているため、そのネットワークを活かし、シンガポールへ進出する燕三条メーカーは増えていくことでしょう。ASEANの中心国でもあるシンガポールをプラットホームに、隣国のマレーシア、インドネシア、タイ、カンボジア、ベトナムなど、経済成長著しいASEAN諸国への展開も期待でき、実際にそのコースを踏みつつ、ASEAN市場を開拓している燕三条メーカーも複数存在します。日本のラーメン業界は、こぞってシンガポール進出を果たし、ラーメンブームを起こしました。シンガポールは極めて可能性の高い市場なだけに、全国他の行政にもシンガポール事務所に出資・参加していただきながら、積極的にシンガポール市場を開拓し、私たち地場産業メーカーも、ラーメンに続いて日本製品のブームも起こしていきたいものです。

「玉川堂青山店」製作実演のお知らせ

7月16日(日)17日(祝)の2日間、玉川堂青山店にて製作実演を開催致します。今回はつる巻の実演です。玉川堂の湯沸や急須の持ち手には、天然の葛や籐が巻かれています。巻き方もいくつかあり、そのバリエーションを職人が実演します。職人の手元で弛みなく丁寧に巻かれていくつるの美しさに改めて触れてみて下さい。

《 湯沸・急須 つる巻 実演会 》

日時:7月16日(土)、17日(日)12:00〜17:00
職人:野村哲之(のむら さとし)(入社2年目)
※籐づるを巻いた鉛筆を、両日ともに先着10名様に差し上げます。

青山店イベント

[第108号]和菓子が秘める地域のブランド力

日本には各地に地域色豊かな和菓子があり、伝統的な食文化と共に育まれてきました。中でも、城下町である京都・金沢・松江は、お茶の文化と共に日本三大菓子処として和菓子文化の発展に大きく貢献しました。和菓子の起源は弥生時代にまで遡ります。木の実を乾燥させてすり潰し、間食として食べたのが始まりとされ、和菓子は日本最古の加工食品なのです。菓子の「菓」は果物、「子」は種子を意味し、これを総じて「果子」と呼ぶようになりましたが、安土桃山時代に輸入された南蛮菓子が登場してからはそれと区別するため、次第に「和菓子」という名称が用いられるようになりました。日本の四季との関わりが深く、四季折々のデザインと多彩な色彩感覚は食の芸術としても世界的に評価され、無形文化遺産の和食と共に今後は世界展開も期待できます。また、和菓子は贈答品としての需要が高いのが特徴であり、地方の和菓子企業は地域ブランド連想によって地域活性化にも大きく貢献できる要素を兼ね備えています。

和菓子業界は極めて零細性が強く、製造直販の中小企業や個人事業が圧倒的に多い業界で、約95%の企業が従業員10人未満という構造となっています。零細性の強い業態である理由は、地域密着型の経営が多いことが大きな要因で、販売商品には消費期限が短いものが多く、流通菓子のような展開が出来にくいため、それぞれの店がその規模に応じた地域の固定客を掴んでいるためと言えます。また、歴史のある中小企業や個人事業が多く、独自の売れ筋商品を育ててきたことや、それが各店の個性化にもつながって、安定した客筋を掴んできたことも一因と考えられます。また、ほとんどの中小企業や個人事業が土地建物を自己所有し、自身の生活と密着して和菓子店を経営しているために経営基盤が比較的安定していること、営業規模の割には資産状態が良いことも和菓子業界の特徴と言えます。反面、ブランディングや時代に呼応した商品開発にはあまり着目せず、新しいビジネスの構築には無関心な経営者が多いとも言われています。

そんな中、和菓子業界で巧みなブランディングで急成長した代表的企業の一つが「源吉兆庵」です。戦後、岡山市内の小さな和菓子屋からスタートし、1980年代後半以降、現社長の優れた経営手腕によって事業を大きく展開。岡山市に本社を置きつつ、老舗和菓子店舗が競い合う京都で新ブランド「京都 清閑院」の立ち上げを皮切りに、奈良市に「香寿軒」、鎌倉市に「鎌倉源吉兆庵」、東京・日本橋に「日本橋屋長兵衛」など複数のブランドを立ち上げ、それぞれ子会社としてその地域で本店を構えています。京都、奈良、鎌倉、日本橋という、和菓子の老舗性が感じられる地域の選択、その地域の菓子舗に相応しい特徴あるネーミングに、消費者のブランド連想を巧みに誘導する戦略性が見て取れます。そして、基幹ブランドである「源吉兆庵」は、ニューヨークの5番街、ロンドンのピカデリーという一等地に店舗を構え、和菓子の世界展開や日本文化の啓蒙活動にも貢献。パリに直営店を構える「とらや」と並ぶ、日本を代表する和菓子企業として世界的に認知されています。

新ブランドも次々と台頭しています。「HIGASHIYA」は、銀座と南青山に店舗を構える新進気鋭の和菓子ブランド。中でも銀座店(POLA銀座ビル)は店主・緒方慎一郎氏の美意識が凝縮された空間構成になっており、銀座の名所の一つとして認知されています。本職はデザイナーですが、デザインと食は表現形式として一体でなければならないと自ら和菓子店を経営し、店舗デザイン・和菓子・パッケージなど全てプロデュース。緒方氏の世界観が体感できます。和菓子も見事な味わいで、連結する喫茶も都内有数のレベルの高さです。また、京都市・綾小路の京あめ「Crochet(クロッシェ)」は、創業130年の京あめの老舗「今西製菓」の新ブランド。白色に統一された店舗内装と宝石のように美しい京あめの数々は、飴の概念を見事に覆す逸品です。飴のデザインはパリのファッションデザインを取り入れ、京あめの新しい世界観が表現されています。上記2ブランドに共通することは、ブランドメッセージが明確で、店舗デザイン・和菓子・パッケージなど、全てに統一感があること。製品の品質も想像を超えるレベルの高さで、和菓子業界の今後のあり方に一石を投じるブランドと言えるでしょう。

このように新ブランドが次々と台頭し、和菓子は新時代を迎えていますが、和菓子の1世帯あたりの年間支出額はここ20年間で約半分に減り、和菓子離れは著しい状況です。この和菓子離れに歯止めを掛ける存在としてコンビニスイーツの和菓子が大ヒットを連発しており、和菓子人気を復活させる原動力になっています。2006年以降、コンビニ各社はチルド和菓子を積極的に導入し、今まで和菓子を購入することのなかった顧客層を取り込みました。チルド和菓子と言えば、消費期限が当日限りのため廃棄ロスが出るなど難しいカテゴリーでしたが、技術革新によって消費期限を3~5日程度に延ばすことが可能に。また、和菓子屋では1つだけ買うことに抵抗がある消費者が多いものの、コンビニでは1つだけでも買えるため、この気軽さも需要拡大に繋がっています。また、和菓子は贈答需要が高いことに対し、コンビニは自家需要がほとんどのため、和菓子の魅力を再発見し、顧客層の底辺拡大に大きな役割を果たしているとも言えます。コンビニの台頭で淘汰されている和菓子店舗もありますが、底辺拡大を商機として捉え、業界は和菓子ブーム到来へと大きく舵を取って欲しいものです。

贈り物としてのニーズが高い和菓子は、品質もさることながら、他の業界以上にパッケージデザインが重要視される業界でもあります。新ブランドが台頭し競合ひしめく今、その傾向はますます高まっていくことでしょう。これからは地域の和菓子企業と地元デザイナーとの協働をさらに活発化していくことが求められていく時代となります。地域で産み、地域でデザインするという「地産デザイン」という概念を浸透させていくことが、これからの和菓子業界の方向性であると思っています。明確なコンセプトのもと、パッケージデザインは消費者に商品情報や価値、ブランドアイデンティティの無形的価値を提供する大切なコミュニケーションツールであり、地元デザイナーと共存共栄することが和菓子業界活性化の鍵。成長している和菓子企業は、例外なくデザイナーとの協働が上手くいっています。弛まぬ技術革新と商品開発、積極的な流通改革、そして、地産デザインの活用。もともと製販一体型が構築されている業界だけに、デザインの力で和菓子という日本文化をさらに成熟させ、地域活性化の原動力としての飛躍も期待したいものです。

[第107号]人と地域を結ぶ商店街の在り方

1929年(昭和4年)、アメリカ合衆国で勃発し世界中を巻き込んだ世界恐慌の影響が日本にも及び、昭和5〜6年にかけて空前絶後の大不況が襲いました。いわゆる昭和恐慌です。戦前の日本における最も深刻な不景気で、全国的に廃業が相次いだ時期。玉川堂も例に漏れず廃業寸前まで追い込まれた時期で、仕事がないため銅器職人は土木作業員として働き、日銭を稼いでいました。そのような経済状況の中、貧困にあえぐ農民の中には農家を捨て職を求めて、家族で都会へ移動する人が急増しました。しかし都会では、農民たちが予想していた以上に雇用が少なかったため、食料品や日用品など資本をそれほど必要としない商品を扱う小さな小売業を開業する傾向が生まれ、それらのコミュニティが形成されるようになりました。これが商店街の始まりであり、昭和恐慌を契機に農村から都市への流動化を背景にして生まれたビジネス形態です。その後太平洋戦争によって日本は焼け野原になりましたが、戦後の復興と共に商店街もまた活気を取り戻し、日々の暮らしの場に欠かせない存在として日本の経済を支えてきました。

しかし街の中心として賑わった商店街も、1980年代初頭をピークに衰退の一途を辿ります。その背景には、郊外の無料駐車場付き大型店に人々が流れたこと、旧態依然の品揃えが、顧客ニーズに呼応したコンビニや専門量販店の製品に負けたことなどがありますが、その大きな誘因は、後継者問題にあります。商店街を引き継ぎ市場を維持する人材を育成出来なかったのです。江戸時代から明治時代にかけての商家は、家族経営であるものの奉公人を抱え、優秀な奉公人にはのれん分けさせるなどして事業継続を図っていました。また、跡取りのいない場合は奉公人など家族以外の人材を登用するなど、店を後世に残すという目的意識が大変強い時代でした。しかし、戦後は家族だけで経営する店が増え、自分の代で商売を終えても良いという考え方に移行していきます。子供には不安定な店を継がせるより、安定した職業に就き自立することを親は望み、そして子供も家業には拘束されず職業を自由に選択したいという風潮が生まれます。家族という閉ざされた領域で事業選択も家族単位に閉じたものになり事業継承が気薄になっていく中で、商売が成り立っている店ですら次々と閉店。こうして商店街の衰退は表面化していったのです。

さらに、地権者の問題も商店街の基盤を揺るがす大きな問題として残ります。商店街に土地や建物を持つオーナーの多くは、高度経済成長期に貸しビル経営やアパート経営にも着手しており、その収入が安定すれば商店街の空き店舗対策は急務ではなくなります。よって地権者の商店街活性化への意識が薄く、もし借り手が出現してもバブル期と同じような不合理に高い家賃を提示し、結局破談となるケースが多いとのこと。不動産会社の指導のもと適正な価格を提示しないと、商店街活性化以前の問題となります。また、多くの店舗経営者は自身の所有物件のため、空き店舗となった場合でも「住まいも一緒なので貸したくない」「貯蓄があるので貸すのが面倒」などの理由で賃貸に消極的な例も多いのです。まず地権者が商店街活性化に利を得る仕組み作りが、抜本的な商店街の再生への課題とも言えます。

こうした中で、膠着しがちな土地問題に風を通し、市民の手によって飛躍的に活気を取り戻し再生を遂げた商店街が存在します。高松市「高松丸亀町商店街」です。従来結びついていた土地の所有権と利用権を分離することで、商店街を中心とした町づくりを行った成功例です。高松丸亀町商店街振興組合は、地元住民を中心としたまちづくり会社「高松丸亀町まちづくり株式会社」を立ち上げました。この会社がデベロッパーとなって定期借地を導入し、商店街を構成する全ての地権者から地主や家主の権利を一旦預かる形で商業床を取得。さらにこの商業床を一体的にマネジメントする画期的な取り組みを行ったのです。これにより真っさらな状態からの自由な商店街づくりが可能となり、高齢化社会に向けての車のいらないまちづくりをテーマとした商店街の構築が始まります。大きな特徴は「平面のゾーニング」と「再開発ビルにおける職住一致」。まずは街全体にA〜Gまでの街区を設定し、A街区には整備された広場、B街区には飲食店、C街区にはライフスタイル提案型店舗と医療施設といった具合に、目的別にゾーニング。さらには再開発ビルを建設し、1〜3階を商業フロア、4階にレストランとコミュニティ施設、さらに5〜9階を住宅とし、職住一致の戦略を実現。このように、市民が立ち上げた会社が、街に必要な機能をコミュニティビジネスとして運営し、より市民が利用し易い商店街の形態を実現したのです。自動車に依存しないコンパクトシティーのモデルケースとしても注目されており、人と人とがふれあえる商店街の再構築は、国民の3人に1人が高齢者になると予測される今こそ重要となります。

高松丸亀町商店街の取り組みが商店街を中心とした市民生活を機能させることに成功したのは、街のレイアウトという枠組みの整備だけでなく、それを運営する人材配置と経営的なフォローまで担ったことにあります。全国の商店街の多くが活性化のために様々な対策を行ってきましたが、昔の街並み再生やイベント開催などどちらかと言うと内向きの発想になりがちで、その多くは局所的な盛り上がりにはなるものの街全体の活性化にまでは結び付いていません。その点高松丸亀町商店街は、若者の新規開業サポートや、近所のライバル店である高松三越も施設内に参入させるなど、周辺地域との連携も推し進めてきました。存続させるのは何と言っても人の力。店舗誘致のみを目的とするのではなく、起業意欲旺盛な若者の情熱を取り込み、起業する場を提供し、経営のノウハウを伝授し継続的にサポートしながら店舗としての成熟を促す仕組みづくりが求められます。資本も経営資源も乏しい若者が起業する場を提供する意味においても、商店街の意義が見直されてくると思います。

連携の輪を広げることに関しては、商店街と地元の地場産業との関係もこれからの活性化策として必要不可欠となります。地域市民が集う場としてはもとより、観光客に街の魅力を発信する場所としても、商店街の再生は大変重要な課題であると言えます。全国どこでも同じ品揃えの郊外型大型店ではなく、地域ごとに様々な個性が表現できる商店街は、観光資源としても十分に存在意義を示す事が出来、国内の観光客だけでなく海外からのインバウンドも取り込める可能性を秘めています。国際産業観光都市を目指す私たち燕三条を例にとれば、工場見学と商店街が連携することで、より地域の文化背景を深掘りすることが出来ます。喫茶店、菓子店、酒屋など、各店舗には燕三条の文化が凝縮されており、店員との会話の中でさらに燕三条の魅力を認識することが出来ます。街全体の変化に応じて、商店街のあり方も変化しなければならない時代です。商店街単独での活性化では行き詰まるだけ。商店街活性化はその地域の農工商全体で取り組む必要があり、常に時代に呼応した商店街の役割を、地域全体で考えていく必要があります。起業意欲旺盛な若者の情熱を取り込み商店街活性化を地域全体で取り組めば、商店街は新時代を迎え、100年後も地域の核となる存在であり続けていくことでしょう。