[第185号] 明治輸出工芸 〜技術と感性の高みを目指す職人魂

 「工芸」と「美術」は、明治時代に発案された用語です。明治3年、政府の官庁の一つ、工部省の創設文章の中で、初めて「工芸」という用語が使用されました。当時、工芸とは最新の機械力を生かした工業製品のことを指していたため、現在の工芸とは意味合いが異なり、「工芸」と「工業」が区別されるようになったのは、明治20年代からです。そして、明治6年、日本が初めて公式参加した万国博覧会である「ウィーン万国博覧会」への出展の際、品別の分類名として初めて「美術」という用語が使用され、以降定着していきました。万国博覧会への出品が回を重ねると、観賞用の絢爛豪華な作品が次々と製作され、明治28年には「美術工芸」という用語も生まれました。

 江戸時代、将軍家や諸大名がパトロンとなり、各藩の職人へ刀装具や調度品などを製作させましたが、それらの道具の技巧レベルが身分を表す標識となっていました。そこでパトロンは、職人たちにより高い技巧を求めて競わせ、よって彼らの技術力は飛躍的に向上し、職人は花形職業の典型とされました。戦争が無かったため、技術の追求が軍事用品ではなく、男の道具の美的感性へと向いていたのです。しかし、武家社会が崩壊して明治政府が誕生すると、職人たちはこれまでの後ろ盾を失い、無職同然となります。そこで明治政府は、殖産興業政策の一環として外貨を獲得すべく、職を失った職人たちへ美術工芸品を製作させ、万国博覧会でそれらを売り込む政策を打ち出します。西洋との貿易が始まったことから、西洋の文化に合わせた大花瓶や香炉などの製品開発を指示したのです。すると職人たちは、水を得た魚のようにこれまで培った技術と感性を遺憾無く発揮。万国博覧会では、未知なる極東の国・日本の作品群に驚愕し、日本ブーム「ジャポニスム」が興ります。

 欧州で思わぬ高評価を受けた日本では、貴族たちが新たなパトロンとなり、国の権威を賭け、全国の職人へコスト度外視の史上最高傑作品の製作を依頼しました。これにより一時、日本の美術工芸の評価はさらに勢いを増しましたが、このジャポニスムは長くは続きませんでした。明治33年(1900年)のパリ万国博覧会でアールヌーヴォーが大流行する中、日本は旧態依然とした絢爛豪華な美術工芸品を出品していたことから、想定外の厳しい評価が下されました。それらが、日本古来より培った意匠ではなく、西洋の文化に合わせた意匠であることに、西洋人が気付き始めたのです。東洋への憧れ、未知なる国・日本への好奇心を掻き立てたものが、実際は博覧会向けの近代の産物であった。日本が西洋好みを理解しようと国の権威を賭けて製作していた一方、西洋では日本への理解が深まるほどに日本へのロマンが薄れてしまうという、すれ違いが生じていたのです。

 日本の美術界において明治時代の工芸は空白期間であり、美術の教科書にも掲載されていませんでした。後に「明治輸出工芸」と称された明治時代の美術工芸品は、大正〜昭和にかけての日本国内においては、過剰な装飾であることから悪趣味とされ、その評価は低いものでした。また、博覧会出品作のほとんどは欧米人が購入していたため、国内にほとんど残っていないこともあって、日本の美術館や博物館での工芸企画は、江戸時代までの作品か、もしくは戦後の現代工芸を取り扱ってきました。しかし、平成以降の万国博覧会の研究の深まり、また、日本人による明治輸出工芸の買い戻しと日本での公開によって、あらためてそれらを見直す機運が生まれたのです。それを後押ししたのが、平成13年(2001年)、明治輸出工芸の代表作・鈴木長吉「銅鷲置物(鋳造)」の重要文化財指定です。明治時代の日本画は、昭和35年以降に次々と重要文化財指定を受けましたが、それから約40年後、明治輸出工芸の指定によってようやく脚光が当たり、国民の関心を集めるようになりました。

 明治時代は、工芸の職人たちにとって波乱の時代でした。武家社会の崩壊、開国、国際化といった激流に翻弄されながらも、常に「最高品質」というパトロンの要望に応えるべく、職人たちは日夜修行に励む、孤高の戦いを続けてきました。未知なる国・日本の美術工芸品は世界を驚愕させましたが、そこには、戦争の無い平和な江戸時代に、究極の趣味人でもある大名との付き合いの中で職人としての感性が磨かれ、さらに明治に入り、西洋の文化に触れたことで様々な意匠や文様を学び、異国の感性をも身に付けた職人の姿があります。私は、この職人の生き方がジャポニスムへ繋がったと考えています。技術と感性が高いレベルで融合された時、人々を惹きつける作品が生まれるのでしょう。古来より、美術の評価軸は時代の変遷と共に変化してきましたが、明治輸出工芸は冷遇された時代を経て、近年は全国の美術館や博物館における人気企画となり、「超絶技巧」とも称されています。時代が大きく変化しても、常に技術と感性の高みを目指す職人魂。令和を生き抜く日本のものづくりのヒントが、明治輸出工芸にあるように思えます。