[第179号] 水注 〜水と共に時が流れる〜

 世界のお茶の茶聖と称される「陸羽(りくう)」。唐時代の760年頃、世界初のお茶専門書「茶経(ちゃきょう)を記して、茶の歴史・製法・淹れ方・精神性などを詳細に解説し、世界に先駆けてお茶という文化を確立させました。刊行1200年以上経過した今でも影響力は絶大で、まさに聖書のごとくお茶愛好家が愛読しており、私たち日本の伝統工芸業界においても影響を与えた一冊です。その著書の中で陸羽は、「器為茶之父、水為茶之母水(茶器はお茶の父、水はお茶の母)」と説いており、以降、洋の東西を問わず、お茶を淹れるための最適な茶器、お茶を淹れるための最適な水を求め、お茶と水の相性を追求する風習が生まれました。

 日本における水を汲み置きする金属器の起源は、仏教伝来と共に伝わった青銅器「水瓶(すいびょう)」で、当時は生活道具では無く、仏教の儀式での飲用などに使用されていました。中でも、奈良時代(8世紀)の「響銅(きょうどう)水瓶」は、銅工芸の傑作であり、国の重要文化財に指定されています。水の汲み置きが一般的に行われたのは江戸時代からで、主に陶製の「水甕(みずがめ)」と木製の「水桶(みずおけ)」が使用されました。「水甕」は舟運の容易な海に近い窯場で生産され、運搬に便利な平野部は水甕、山間部は水桶を使用していたようです。また、水甕は水を柄杓で汲みやすいよう、口径を広くしていますが、口径の狭い「壺」は、食品や調味料などの保管用としてだけでなく、茶葉の運搬や保管のための「茶壷」としても開発され、次第に庶民にもお茶を楽しむ風習が広がっていきました。

 戦乱の無い太平の世が続いた江戸時代は、庶民文化が発展して様々な民具が開発され、甕や桶以外にも水を汲み置きする道具が進化した時代で、代表的な道具としては「水注」「水差」「水指」が挙げられ、それぞれ「みずさし」と呼びます。用途は書物によって様々ですが、玉川堂に伝わる解釈では、「水注」はお茶用の水の汲み置き、「水差」はコップなどに水を注ぐ、「水指」は茶の湯用、としています。中でも「水注」は、銅の殺菌作用によって水が浄化され、お茶が美味しくまろやかに仕上がることから、明治時代から昭和初期における玉川堂の主力商品であり、「新潟の旧家には、必ず銅の水注がある」と言われたほど、新潟で定着した鎚起銅器でした。

 水注は、胴体・持ち手・注ぎ口などの形状バランス、各種部品の製作と取り付けなど、鎚起銅器のアイテムの中でも難易度が高く、この難易度の高い製品が当時の主力製品であったことから、職人の技術力は必然的に高まり、玉川堂技術の「無形文化財」指定に繋がりました。玉川堂では終業午後5時30分以降、福利厚生の一環として工場を開放し、各職人が自由に作品を作る時間を設けています。自宅で使用する銅器、公募展の作品製作など、目的は様々ですが、若手職人は自主練習として、水注を製作することが昔からの習わしとなっています。銅器技術の基本であり、生活道具の基本でもある水注を繰り返し製作することで、様々な形状に対応できる能力が養われます。

 水を汲み置きしてお茶を楽しむ文化は、主にアジア全般で浸透していましたが、浄水器などの流通によって、その風習は無くなりつつあります。しかしながら現在では、中華圏のお茶愛好家の一部が「水甕(みずがめ)」や「水注」などを使用しており、近年、あらためて水の汲み置き用の器が見直されています。「水注」で水を汲み置きし、その水を「湯沸」に注いでお湯を沸かし、そのお湯を「急須」に注いで、お茶を淹れる。玉川堂にも伝わる風習で、この3点は茶器(注器)の三種の神器です。これらの3つの銅器を使用することで、お茶が極上の一杯に仕上がるだけでなく、道具を目で楽しむことで、お茶のひとときがより豊かになります。晩に水を汲み置きし、翌日、お茶を淹れる。これが私の長年のルーティンとなっています。毎日の暮らしの中に、水と共に「時」が流れる風習を大切にし、水注の存在価値を多くの方々に再認識していただきたいと思っています。