[第176号] 彫金師 〜1本の彫線にかけた人生〜

 金属工芸は「鋳金(ちゅうきん)」「鍛金(たんきん)」「彫金(ちょうきん)」の3つに分類されます。「鋳金」とは型に金属を流し込んで器へと整形する技法、「鍛金」とは金属板を叩いて器へと整形する技法、「彫金」とは鏨(たがね)を用いて文様を彫る技法を指します。一般的に彫金は、鋳金や鍛金の作品に対して文様を彫るため、陶磁器の「絵付」や漆器の「蒔絵」などに相当する技法です。1本でも彫線が歪んだ場合、その製品は破棄となり、失敗の許されない作業です。そのため、作業場は振動や音の無い静かな環境であること、その上で、作業中に手が震えない対策として、日頃の体調管理だけでなく、作業前は重労働をしないなど、心身共に平常な状態を保つことが求められます。その精神バランスを養うためには、感性や経験値だけでなく、彫金師としての生き方を問われる作業とも言えます。

 日本の彫金の技術は、弥生時代(BC3世紀頃)にシルクロードを経由して伝わりましたが、技術拡大の契機になったのは538年の仏教伝来です。造寺や造仏が盛んに行われたことから、彫金需要が増加し、さらに、遣唐使によって「唐草文様」など、大陸の文様が移入されると、彫金は様々な用途に用いられるようになりました。中でも、東大寺所蔵の国宝「銀製壷・狩猟文」(奈良時代)は、切手にも採用された日本の金属工芸を代表する名品で、技術や文様の観点から、私はこの作品が日本の金属工芸の原点であると考えています。平安時代に入り、武士が台頭すると、刀剣・甲冑などに華やかな彫金を施すようになり、戦乱の無い太平の世が続いた江戸時代には、美術工芸の要素が強い、観賞用の刀装具に彫金の需要が高まり、彫金師は花形の職業として存在感を高めていきます。

 新潟県燕市における金属加工技術の多くは、会津若松の金属加工職人によって伝えられ、燕のルーツは会津若松にあります。彫金の技術も同様で、明治18年頃、会津若松の彫金師によって燕へ伝えられました。華やかな文様を器へ表現する彫金は、当時の燕の基幹産業であった銅器や煙管などの製品に適合し、次第に彫金産地としても発展します。大正時代、ステンレスやアルミなどの新素材が登場すると、銅器や煙管などの需要は激減し、同時に多くの彫金師も仕事を失いましたが、燕の職人たちは金属洋食器(カトラリー)の開発に活路を見出すと、彫金師も金属洋食器に適した文様や技術(金型彫刻)に活路を見出し、最盛期の昭和50年代は、燕市だけで約130名の彫金師が活躍する日本有数の地域として栄えました。しかし、金属洋食器の生産量の低下、文様も簡素化され、現在、彫金師は10名以下となり、かつ高齢化も進み、存続の危機となっています。

 現在、産業として彫金が残る地域は、京都・東京・高岡を中心に複数存在します。一時は高度経済成長期以降の贈答需要の高まりから、花瓶や額などに華やかな文様を入れる彫金製品の生産量は大きく増加したものの、バブル崩壊以降は、そうした製品の需要の落ち込みにより生産額の減少に歯止めが掛かっていません。高岡彫金はデータ(高岡市役所)が公表されており、新型コロナ前、2018年度の彫金事業所数=16事業所(職人数26名)、その合計生産額(年間)=6,090万円。高度な技術を持ちながらも、事業としては厳しい状況が伺えます。玉川堂の鎚起銅器は「鍛金」に分類されますが、明治時代より「彫金」も取り入れ、同じく高度経済成長期以降、贈答需要による彫金入りの花瓶や額などは、売上の約7割を占める主力製品でした。しかし、バブル崩壊以降、贈答需要から脱却し、自家用の茶器や酒器へと主力製品を移行させた結果、彫金の入らない、鎚目のみの銅器に人気が集まり、彫金の作業は減少傾向にあります。

 「鏨を打ち込む心が、生命を生み表すものであり、心の弾む時も、また沈む時も、迷いも、全てがその彫線に残される。」昭和を代表する彫金師・船越春秀の言葉です。研ぎ澄まされた精神力と集中力を投入し、長時間かけて丹念に研いだ鏨に込めた1本の彫線には、「彫金師の生き方」そのものが表現されます。古代より、彫金師の血をたぎらせ、そして、人々の心を魅了し、生活に潤いを与えてきた彫金。彫金の文化をさらに発展させ、正しく後世へ伝えることは、私たち玉川堂の社会的責任でもあると考えており、昨年、新たな彫金師が玉川堂に加わりました。玉川堂で明治から伝わる文様(動植物や干支などの図案)を活かしながら、新たな文様を生み出し、今後は彫金製品のさらなる充実を図ります。彫金とは、文様に森羅万象の美しさを凝縮させ、幸運・繁栄・豊作などの願いを表現すること。彫金の存在は、これまでも、そしてこれからも、世界中の人々の心を、永久に豊かにしていくものと信じています。