[第175号] 中国工芸の真髄に触れる

 日本の工芸は、中国の明清時代(明1368〜1644・清1644〜1912)の工芸の影響を強く受けています。古代より、中国の工芸の種類・技術力・表現力などは、他国より優れた存在でしたが、明の時代に入ると大きく花開き、色彩豊かな様々な美術様式が発展し、特に陶磁器・漆器・七宝・木彫・染織などに多数の名品が残されています。そして清の時代に入ると、中国の工芸が欧州人に高く評価され、美術工芸やインテリアなどに中国様式を取り入れた作品が大ブームを興し、「シノワズリー(中国趣味)」として一世を風靡。また、日本でもシノワズリーが興り、特に江西省・景徳鎮(けいとくちん)の陶磁器の存在は、日本の工芸の根幹を覆すほどの衝撃を与え、有田焼・伊万里焼・九谷焼を筆頭に中国様式を積極的に取り入れる風潮が生まれ、後の「ジャポニスム」へと繋がっていきます。

 明清時代の工芸の最盛期は、清の第6代皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい、在位1735〜96)の頃です。歴代皇帝の中で、最も工芸に造詣が深いことで知られ、工芸王国・中国の確固たる地位を築きました。拡散していた中国歴代の工芸品の収集と編集作業を行い、「乾隆帝コレクション」として史上最大規模の図録を作成した他、職人技術養成にも尽力し、その歴代作品を倣古(ほうこ)しつつ、それを超越する工芸品の制作を推し進め、超絶技巧の名に相応しいその技術力と感性の高さは、見惚れるほどの美しさです。また、乾隆帝時代からガラス工芸の製作が本格化し、その美意識に魅了されたフランスのエミール・ガレとドーム兄弟は、それらの作品を参考として独自の作風を生み出し、「アールヌーボー」への原動力となっています。

 乾隆帝の美意識は工芸に留まらず、中国庭園にも生かされました。ユネスコの世界遺産数世界一を誇る中国において、乾隆帝が造園した世界遺産「頤和園(いわえん)」は、中国屈指の庭園とされ、北京では万里の長城と並ぶ観光名所となっています。日本庭園のルーツは中国庭園にありますが、侘び寂びや不均衡の美を求め、要素を削ぎ落とす日本庭園に対し、中国庭園は理想の桃源郷を求め、この世に存在しない神秘的な空想世界を演出する「造景芸術」と言えます。約4000年前から造園されてきた中国庭園は、中国様式の絵画・書・詩などの技巧と深く結び付きながら進化を遂げ、乾隆帝の時代に最高峰を迎えました。古代から継承されてきた中国庭園の美意識は、中国の工芸とも深く結び付いており、庭園の発展は、工芸の発展にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。

 一方、中国の工芸の象徴的存在である銅器は、明清時代より遥か古く、古代中国が全盛期でした。古代メソポタミアで開発された青銅器(鋳物)は、BC1700年頃に古代中国へ移入されると、祭祀用の器として飛躍的な進化を遂げます。そしてBC221年、始皇帝が中国史上初の統一帝国・秦を構築すると、器ではなく立体物を中心に優れた銅製品が製作され、その代表作が始皇帝の「銅馬車」です。金属工芸の業界において、史上最高傑作の銅製品と評する職人も多く、私も異論の余地が無いほど極めて精巧に作られています。約3500個の鋳造部品を溶接で組み合わせ、中には厚さ約1mmの極薄の鋳造部品もあり、現在の金属加工技術を駆使しても再現は極めて困難です。世界の考古学史上、技術や構造が最も複雑であり、約2200年前、なぜこれほど先進的な銅加工技術が存在したかについては、未だ謎に包まれています。

 この銅馬車は、中国・西安市「兵馬俑博物館」に展示されており、門外不出ですが、この銅馬車の複製品、兵馬俑(等身大の陶製埋葬人形)、青銅器などが一堂に介した展覧会「兵馬俑と古代中国」が東京(上野)で開催されており、先月1月、見学してきました。秦の始皇帝の時代は、兵馬俑約8000体の製作、万里の長城の建築開始など、中国文化の中核を成す時代。展覧会の作品の数々は人間の技術力と感性を超越し、中でも銅馬車の存在感は際立っており、金属工芸の業界に従事している私にとって、その原点を体認する貴重な展覧会でした。日本の工芸の原点は中国の工芸にあり、その真髄に触れることは、工芸の本質を知り、工芸の理解を深めることに繋がります。日々の生活の中で、工芸品を楽しむ上においても、中国の工芸の理解を深めるほどに、その奥行きの感じ方は大きく広がっていくものと思っています。