[第173号] 上杉鷹山の功績を地域の活力に

 山形県米沢市と言えば、米沢藩が存在した上杉家の城下町。上杉神社をはじめ上杉家ゆかりの史跡が点在しており、「米沢上杉まつり」「上杉雪灯篭まつり」など、上杉を冠したイベントも多数開催されています。中でも9代目藩主・上杉鷹山(ようざん)は、壊滅状態の米沢藩を立て直した功労者として神格化され、今も米沢市民は「鷹山公」と尊称する伝説の人物。市内には鷹山ゆかりの神社、石碑、銅像などが点在しているほか、当時、鷹山が推奨した産業は、米沢の地場産業として今に受け継がれており、米沢における影響力は計り知れません。その功績を後世に伝えるべく、主に鷹山の生涯をテーマとした「米沢市上杉博物館」は、歴史愛好家ならずとも一見の価値があります。

 米沢藩は、春日山(新潟県上越市)を本拠に越後を統一した、上杉謙信を家祖とする上杉家が代々藩主として就任。米沢藩8代目の時、全国多くの藩が財政悪化に苦しむ中、米沢藩は特に深刻な状態であり、破綻寸前に陥っていました。そのような状況下においても、藩主は家臣を減らさず過剰人員を抱え、なおかつ上杉家という名門のプライドゆえ質素な生活に変えることが出来ず、借金は日々膨れ上がる一方。もはや藩の存続は、時間の問題とされていました。その窮地を救ったのが9代目藩主・上杉鷹山です。1751年、高鍋藩(宮崎県)の6代藩主の次男として生まれ、9歳の時に米沢藩8代藩主の養子となり、16歳という異例の若さで9代藩主に就任。藩としての立て直しは困難と判断した8代目藩主は隠居し、藩運営の全ての権限を、若き上杉鷹山へ託したのです。

 事業承継は、しがらみのない若い年齢ほど大胆な政策を実行できるものであり、保守派の重臣らの激しい反発に遭いながらも、次々と藩政改革を実行していきます。健全な社会の実現には、経済と倫理のバランスが重要であると、真っ先に手を付けた改革は、大胆な倹約令と藩校の設立でした。藩の収支を開示することで財政難の現状を伝え、自らの生活費も大幅に切り詰め、庶民にも倹約を指示する一方、教育には積極的に投資し、藩校「興譲館」を設置して人材育成に努めました。また、自給自足体制を強化すべく、米沢藩の特産品開発にも尽力します。最重要課題は農業の振興でしたが、それに留まらず、衰退していた「米沢織」の復興に着手して地場産業へと発展させ、さらに、福島県から鯉を取り寄せて米沢城のお堀で鯉を飼育し、「米沢鯉」は郷土料理へと発展していきます。
 
上杉鷹山が行った事業は、上記以外にも多数の事業が米沢の地場産業として発展しており、現在の米沢市の根幹を成しています。その上杉鷹山のDNAは、米沢市民に着実に受け継がれ、米沢市のブランド戦略事業「米沢ブランディングプロジェクト」が4年前に立ち上がりました。ブランドコンセプトは「鷹山公のDNA『挑戦と創造』の力で、次の米沢をつくる」。キャッチフレーズは「米沢の未来は、米沢を愛するものにしかつくれない」。地場の優れた商品やサービスなどにシールを貼るブランド認証制度ではなく、「米沢品質」を有する商品やサービスを「米沢品質AWARD」とする顕彰(けんしょう)制度を実施しています。著名デザイナーをはじめとする外部審査員で構成され、ブランド戦略事業「米沢品質向上運動」に参画している企業や団体がエントリー対象となります。米沢市の様々なブランディング事業の支援を受け、「米沢らしさ」を見つめ直し、それを継続的に発信し続け、運動体になることが米沢ブランド戦略であり、その先進的企業や団体に「米沢品質AWARD」が贈られます。

 「為(な)せば成る」。どんなことでも強い意志を持って努力すれば、必ず成し遂げることが出来る。上杉鷹山の座右の銘です。先月11月中旬、米沢市役所を訪問し、市内企業の方々と交流を持つ機会がありました。行政、企業、市民らが、鷹山公のDNA「挑戦と創造」を受け継ぎ、米沢を変革させようとするシビックプライドは素晴らしく、とても感銘を受けました。全国各地において藩主を崇拝し、それを地場産業への活力とする動きはありますが、藩主を崇拝する意識の高さは、米沢が全国一と言っても過言ではありません。「米沢ブランディングプロジェクト」は開始されたばかりですが、上杉鷹山を人生の師として仰ぎ、そして地場産業を育成させた功労者として崇め、その一体感の強さは、これからの地場産業のブランディングのあり方に、一石を投じる事例になると確信しました。