[第170号] 無心と祈りの版画家 棟方志功

日本の夏の風物詩といえば夏祭り。土地の文化や風土と密着し、人気の高い祭りには国内外から多数の見物客が集まりますが、その代表的なものとして、毎年8月上旬に開催される「青森ねぶた祭り」が挙げられます。稲作が中心の東北地方において、「眠気」は悪霊の仕業であるとされ、秋の繁忙期前の悪霊払いの精霊流しが起源となり、「眠たい=ねふた」という言い回しが現在の名称「ねぶた祭り」になったとされます。この青森ねぶた祭りに刺激を受け、自身の作風の根源とし、青森を代表する芸術家として名を馳せたのが棟方志功(むなかた しこう)です。出身地の青森市では、初代・栄誉市民として尊ばれ、約400名の文化勲章受章者の中で、唯一の「版画」での受章を成し遂げ、さらに世界的権威ある展覧会において多数の受賞歴を誇り、「世界のムナカタ」として絶大な人気を誇っています。

棟方志功(1903年〜1975年)は、青森市の鍛冶屋の三男として生まれ、父は青森でも名の知れた鍛冶職人。ねぶた祭りを見ると血がたぎり、近所では年中ねぶたの製作が行われていたことから、将来の夢はねぶた絵師になることでした。その夢を叶えるべく絵画に没頭していた少年時代、ある一枚の絵葉書との出会いがその後の人生に大きな影響を与えます。それは、ゴッホの「ひまわり」の絵です。型破りの発想と豪放さ。そこに、ねぶたとの共通要素を見出し、「わ(私)だばゴッホになる」と、画家になることを決意します。21歳の時に上京し、本格的に画家の道を歩み始めましたが、版画家の出会いによって版画での創作活動を開始すると、徐々に頭角を表します。

転機が訪れたのは、33歳の時。公募展で棟方志功の作品を見た民藝運動の主唱者・柳宗悦は、「化け物が現れた」と絶讃します。当時、無名の存在であった棟方志功の素質を見抜き、次々と作品を購入。志功は柳宗悦を生涯の師として仰ぎ、二人三脚で創作活動を行ったことで、その才能はさらに開花していきます。柳宗悦は、美しいものが生まれるための条件の一つとして「無心」を挙げており、「無意識でひたすら作業を行い、無心で作られたものの中にこそ、本当に美しいものが生まれる」と語っています。棟方志功の作業風景を動画で見ると、顔を板木すれすれに近づけ、本能に従って全身でぶつかるように彫る姿は、まさに「無心」そのもの。柳宗悦は「体全体で表現する感覚は天性のもの。これは鍛冶職人の息子だから出来ること。」と評しています。

柳宗悦は、民藝運動の指導者の中で唯一作り手では無かったものの、「自らが作品を作っているのではなく、自分の体を使って作らせていただいているという感覚が作り手に求められる」と主張。「他力本願」の思想に基づいた、独創的な仏教美学を提唱した思想家でもあり、それを体現したのが棟方志功でした。それを象徴する棟方志功の口癖が「私は自分の仕事に責任を持てません」という言葉。「自分に仕事をさせている何者かがいる。自分はその手足に過ぎない。だから作品の出来不出来は、自分の責任ではない」。この思想は、彫刻美学に通づるものがあり、例えば運慶は「仏像とは、自分が作るのではなく、木に宿っている仏様を救い出すことである」、ミケランジェロは、「大理石の中に天使を見た。自分はその天使を自由にさせるために彫っているのだ」と、それぞれに語っています。

棟方志功は、素材である「板」の生命を熟知し、魂を呼び起こそうと、「版画」ではなく「板画(はんが)」という名称を用いました。喜怒哀楽の感情を超越した想いを、体全体で「板」にぶつけており、それを象徴するのが、故郷・青森への想いを表現した作品群です。当時青森では、冷害による大飢饉が極めて深刻化した時期。中でも、邪気を払うために身体を真二つに割り、大飢饉が鎮まるようにと、復興と再生の祈りを捧げた作品は、まさに「無心」の境地が成せるものであり、今の現代社会では有り得ないような描写です。無心で製作されたものの中に美が宿るという民藝の思想をさらに超越して、祈りや歓喜が宿る作品の数々に、強烈な故郷愛を感じます。「故郷に幸あれ」という、棟方志功の故郷への熱い想いは、秋の収穫期前に悪霊を払うための祈りを捧げる「ねぶた祭り」の精神へと受け継がれ、そこには、棟方志功の魂が永遠に息づいていくことでしょう。