[第168号] 松江に息づく不昧公の茶の湯の心

茶の湯の文化が根付き、京都・金沢と並ぶ「日本三大和菓子処」としても知られる松江。毎年10月に開催される「松江城大茶会」は、京都「二条市民大茶会」、金沢「兼六園大茶会」と共に「日本三大茶会」と称され、国内外から多くの茶道関係者が集まる、松江を代表するイベントです。茶の湯の街・松江ならではの光景として、主に朝食に抹茶を楽しむ風習があり、時には企業訪問の際も抹茶が提供され、茶の湯が生活習慣となっている全国的にも珍しい地域です。そのお茶文化を語る時、必ず引き合いに出されるのが、松江藩7代藩主の松平治郷(はるさと・1751年〜1818)です。号が「不昧(ふまい)」であることから、「松平不昧」と称されますが、松江では「不昧公(ふまいこう)」の愛称で親しまれています。

安土桃山時代、千利休が大成させた茶の湯の文化は、江戸時代に入ると町衆にも広がりを見せた一方で、当時流行した遊芸の流れで華やかな茶道へと変化し、千利休が重んじた侘び寂びの精神は次第に薄れていきます。その風潮を危惧し、贅沢な茶事は慎むべしと、茶の湯の再構築に尽力した大名茶人の代表格が、松江藩7代目藩主・松平不昧です。不昧は千利休の侘茶の原点に立ち帰り、自ら「石州流不昧派」を創始。茶会で使用する茶道具は、松江の伝統工芸「楽山焼」「布志名焼」を不昧の御用窯として自ら指導にあたった他、和菓子の開発にも乗り出しました。このように、不昧が松江藩の茶の湯文化の総合プロデューサーとして振興を図ったそれらの伝統工芸や和菓子は、今も松江を代表する地場産業として継承されており、「不昧公好み」として、松江の貴重な観光資源となっています。

松平不昧は、「天下の名物は一人一家一国の宝にあらずと知るべし」の信念のもと、個人蔵などで名品が埋もれることの無いよう、全国の茶道具の収集にも奔走し、徹底した美術工芸品の保護措置を講じました。この政策は、日本における文化財保護の先駆けとされ、当時の貴重な美術工芸品が散逸せず、現在全国の美術館や博物館で保管されています。その代表する美術館が、松江城近くの「田部(たなべ)美術館」です。松江藩でたたら製鉄を営んだ田部家(現在25代目)によって保存管理が引き継がれ、松平不昧が収集した美術工芸品を筆頭に、田部家が約600年に渡り収集した出雲地方の美術工芸品も秀逸で、私は過去5回以上入館していますが、茶の湯をコンセプトとした美術館では、全国有数のコレクションです。

江戸時代後期の松江藩は、全国有数の富裕藩でしたが、その原動力となったのは、田部家を中心に操業していた「たたら製鉄」です。松江藩の基幹産業であり、最高品質の鋼(はがね)と評価されたことから、日本刀の材料として全国の各藩へ供給されました。松平不昧は、その利益の一部を活かして茶道具の収集にあたり、その所蔵品を収録した本が「雲州蔵帳」です。さらに自らの審美眼で「美の基準」を定め、全国に点在している茶道具の名品を格付けした、茶道具初の格付け本「古今名物類聚」も編纂しました。全18冊、約1100種類にも及ぶ茶道具の名品を一堂に掲載し、ここでの松平不昧の格付け評価は現代においても茶道具名品の評価基準になっていることから、不朽の名著として崇められています。

藩政時代に育まれた茶の湯の文化は、今も松江市民の中に息づいており、幾多の時代を経て今もなお「不昧公」として慕うのは、政治的な功績もさることながら、多彩な趣味を実益に繋げた功績が極めて大きいというのがあります。2019年「松江市茶の湯条例」において、松平不昧の命日である4月24日を「茶の湯の日」と定め、当日は学校給食での抹茶、市内小売店での抹茶特売など、抹茶を楽しむ風習を後世に伝えていく事業が展開されています。また、2021年就任の上定昭仁市長は、公約の一つに「職人商店街」構想を掲げ、商店街の空き店舗を活かし、松江の伝統工芸や和菓子の職人が入居することで、産業観光にも繋げていく事業を推進しています。行政と市民が一体となり、「茶の湯」を観光資源として地場産業を成長させていく動きがさらに加速している松江。今後、訪日外国人の回復へ向け、茶の湯をコンセプトとした街づくりに大きな注目が集まりそうです。