[第156号] 刃を研ぎ、心を研ぐ

 世界に誇る日本古来の文化として、建築、和食、工芸などが挙げられますが、これらの文化が発展した要因として、刃物の存在が欠かせません。中でも鉋や鑿などの大工道具、和包丁、日本刀などは、海外からも高い評価を受けていますが、刃物を製造する技術が優れているだけでなく、世界にも類を見ない高品質の砥石が日本各地で産出されたことも大きな要因となっています。砥石は、数千キロ離れた赤道付近の海底の沈殿物が、数億年掛かって日本へ移動して地上に隆起したものです。どんなに優れた刃物を使用しても、砥石が悪ければ刃物の機能は最大限に発揮出来ないため、優れた砥石を入手することは、職人にとって重要な任務です。また、ものづくりを極めることは、研ぎの技術を極めることに比例するため、それら優良な砥石を活かした「刃を研ぐ」文化が構築されて、長きに渡り継承され現在に至っています。

 「都は優良な砥石の出る場所で作れ」という格言もあるように、砥石が良いと刃物の切れ味が増し、木材の細胞を痛めることがなく防水性も高まることから、建築物の耐用年数が大きく伸びます。中でも京都付近で産出される砥石は、全国屈指の良質なものとして古くからその存在が知られ、京都やその周辺の歴史的建造物の建築に大きな影響を与えました。宮大工の世界では、「穴掘り三年、鋸五年、墨かけ八年、研ぎ一生」という言い伝えがあるほど、作業の時間の多くを道具の研ぎに費やします。昭和を代表する宮大工・西岡常一氏曰く、優れた宮大工の1日の仕事の割合は、「研ぎが4割に対し作業は6割」であるとし、研ぎの重要性を説いた人物です。また、姿勢も研ぎの質を左右するものであって、悪い姿勢では良い研ぎは出来ず、正しい姿勢を身に付けることで、研ぎの技術は上達します。さらに、正しい姿勢で作業をすることは、身体に負担が掛からず、体幹も鍛えられ、結果として職人寿命を伸ばすことにも繋がります。

 料理人の命である包丁。その研ぎ方一つで味覚に大きく影響するため、包丁の研ぎは料理人の重要な作業の一つです。特に和食は、生の食材を活かした料理が多いため、鮮度が生命線の和食において、包丁の研ぎが優れていると素材の持ち味を十分に発揮します。和包丁は食材ごとに開発されるほど多種多彩な種類があり、和食は和包丁の刃を研ぐことで発展した文化とも言えます。例えば刺身の場合、研ぎが優れていると細胞が破壊されないことで、見た目の美しさ、食感の良さ、そして旨味を逃さず、食材の持ち味を十分に引き出すことが出来ます。野菜の場合も、細胞が破壊されないことで鮮度を保ち、食材の変色も抑えられます。煮込み料理は旨味が増して味に奥行きをもたらすため、調味料は必要最低限で構いません。逆に研ぎを怠った包丁を使用すると、食材の細胞が破壊されることで苦味や雑味成分が出やすいことから、魚は生臭さが残り、野菜は苦みやエグ味が出やすくなります。

 金属工芸は「鍛金」「彫金」「鋳金」と3つに大別され、「彫金」は鏨(たがね)を用いて金属を彫る工芸技術です。鏨は彫金師の命であり、常に最高に切れる状態にしておくことが彫金師としての基本姿勢であり、彼らは作業中、多くの時間を研ぎに費やします。彫金は極めて繊細な作業であるがゆえに、彫る前は精神統一が必要です。鏨を研ぐことは彫金師の精神修行であり、「心を研ぐ」とも言われています。彫金は削り跡そのものが作品となり、研ぎが作品の美しさに直結する「研ぎの美」を表現する芸術。研ぎの優れた鏨を使用すると、彫り跡のエッジが鋭く、繊細で美しい曲線が表現できますが、研ぎを怠ると彫り跡が緩く歪みが生じやすく、美しい曲線が表現できません。つまり、彫金作品を見れば、その職人の研ぎに対する心構えや、作業中の研ぎに掛ける時間がおおよそ判別できます。これは木彫り彫刻にも同様のことが言え、彫刻刀の研ぎの優れた職人の彫りは、エッジの鋭さと木の温もりが調和し、繊細かつ表情豊かな奥行きを表現するのです。

  「木を切ることに8時間与えられたら、私は斧を研ぐことに6時間費やす」とは、元アメリカ大統領・リンカーンが残した名言です。研ぎの甘い斧を使用しては、どんなに力を入れても刃が木に食い込まず、しかも、力を入れるほどに切れ味は悪くなります。一つの物事をやり遂げるには、準備に十分な時間を掛けるべきであると、準備や段取りの大切さを説いたリンカーンの言葉です。また、スティーブン・ゴヴィーの大ベストセラー「7つの習慣」では、「刃を研ぐ」が最後の第7の習慣として記されていますが、人格を磨くことは刃を研ぐことと同じであり、肉体的・精神的・知性・社会的の4つの刃をバランス良く、そして常に研ぎ続けることでシナジー効果が生まれ、深い気付きを得ることが出来ると説いています。現代社会において、そして職人世界においても、効率を求めるあまり、すぐに結果を求める風潮が生まれているようにも感じます。効率を求めると「研ぐ」ことが疎かになり、その大切さも希薄になっていきます。職人にとって研ぎは、その後に続く作業への敬意と祈りを捧げ、命を注ぎ込む準備の時間。刃を研ぐように心を研ぎ澄まし、日常に向き合う心のあり方を、「研ぐ」ことの精神性に倣って見つめ直したいと思う昨今です。