[第155号] フランスワインに濃縮された歴史と情熱に酔う

 ワインの醸造は約8000年前、コーカサス地方(ジョージア)で始まったとされ、その後古代オリエントにも広まり、フランスでのワイン醸造は約2000年前のことです。当時から貴重な飲み物でしたが、その存在価値は、イエスキリストの登場によって大きな転換期を迎えます。最後の晩餐で「ワインは私の血である」との言葉が残されたことで、以降「ワイン=キリストの血」という神聖な飲み物として崇められ、教会や修道院はこぞって葡萄畑を開墾。キリスト教の布教と共にワインの需要は拡大していきました。そして16世紀に入ると、フランスの貴族によって高級ワインを楽しむ文化が生まれ、華やかな宮廷文化をワインが彩ります。醸造技術の高い修道士の手がけるワインは貴族の間でも話題となり、修道士「ドン・ペリニヨン」のシャンパンは代表的な存在と言えるでしょう。18世紀末のフランス革命後、教会や修道院の畑は新政府によって没収され市民の所有となり、現在に受け継がれています。

 パリから南へ約300㎞、特急列車で約1時間半のディジョンは、世界中のワインラヴァーが「ワインの聖地」と崇めるブルゴーニュの玄関口。国道沿いに南下すると、シャンベルタン、ロマネコンティ、モンラッシェなどの偉大なクリマ(畑)が広がり、葡萄栽培の最高条件を備えていることから「神に祝福された土地」と称されています。この「ワインの王」ブルゴーニュに対し、「ワインの女王」はボルドー。パリから約600キロ、南西部の大西洋近くに位置し、ジロンド川の左岸はメドック地域、右岸にはサンテミリオン地域などが広がります。醸造所の名称に「シャトー(城)」が付き、資本力と組織力を備えた生産者が多く、まさにお城のような建物が地域に点在します。この2大産地はそれぞれ異なる性格を持っており、小さな畑で伝統的な製法によって希少価値を生むブランド戦略のブルゴーニュに対し、ボルドーは世界最新鋭の設備を有し、大量生産と高品質を両立させるブランド戦略を誇っています。このような背景から、フランス政府が制定するワインの格付け制度では、ブルゴーニュは「クリマ(畑)」を、ボルドーは「シャトー(醸造所)」を評価するものになっています。

 「ワインと言えばフランス。フランスと言えばワイン」。ワイン界の最高峰として、フランスは他国の追随を許さない絶対的な存在。しかし、それを大きく揺るがせ、世界ワイン史の中で産業革命に匹敵するほどの出来事が1976年に起こりました。今も語り草となっている「パリスの審判」です。パリ市内でフランス産とカリフォルニア産の目隠しのワイン試飲対決があり、両国の当代最高傑作ワインが赤白各5本づつ用意され、審査員は全員がフランスワイン業界の重鎮。すると結果は、赤白共にカリフォルニアの勝利に。本家フランスに対して、無名のカリフォルニアがどこまで善戦するのか興味本位で行われたイベントは想定外の結果となり、審査員も観衆も茫然自失。居合わせた両国のマスコミも対応に苦慮しましたが、数週間後、アメリカのマスコミが特集記事を公開します。以降、世界のメディアがこのスクープを取り上げ、カリフォルニアワインは世界注目のワイン産地として、一躍スターダムにのし上がりました。

  「パリスの審判」以降、ワインの民主化が生まれ、勢力図が大きく変化していきます。カリフォルニアだけに留まらず、チリ・オーストラリア・ニュージーランドなどのワイン新興勢力にも脚光が当たり、それらは総称して「ニューワールド」と呼ばれ、世界のワイン市場を席巻。無名産地の新興ワイナリーであっても、努力と才覚をもって励めばしっかりと評価され、フランスワインの名門を凌ぐことが可能となる。ニューワールドの醸造家たちはこの事実に励まされ、大きく勇気付けられたことでしょう。高品質で低価格帯のニューワールドの存在は、世界のワイン人口を増加させ、日本にもワインブームをもたらします。このワイン人口の増加は、結果として本家フランスワインの注目度を高める契機にもなり、「パリスの審判」でフランスワインの権威は衰えるどころか、一層の輝きを放っています。

 「1本のワインボトルの中には、世界中の全ての書物より深い哲学がある」。19世紀、フランスの生化学者ルイ・パスツールの言葉です。最近はワクチンの開発者・名付け親としてその名が知られていますが、「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」と、祖国の名産・フランスワインの品質向上に人生を捧げ、ワイン業界にも多大な貢献をした人物です。彼は、ワイン造りの際のアルコール発酵が酵母によるものであることを解明し、またワイン輸出時に品質を劣化させない約50〜60度の湯煎で微生物を死滅させる「低音殺菌法」を生み出すなど、化学を用いたワイン造りの新たな知識を確立したのです。パスツールが活躍した19世紀は、病害の大流行によってフランス全土の葡萄畑が全滅寸前となり、フランスワイン最大の危機とされた苦難の時代でしたが、幾多の試練を乗り超え、今に至っています。1本のワインボトルには、この約8000年に渡り脈々と受け継がれた歴史と醸造家の情熱が濃縮され、人智を超越する奥深さがあります。その神秘性に酔うことも、ワインの魅力なのかもしれません。