[第145号] 昭和恐慌の歴史に、 コロナ渦の経営の在り方を学ぶ

 大正後期から昭和初期は、日本経済がはじめて経験した大恐慌、大量失業の時代でした。第一次世界大戦で空前の好景気を迎えた後、1920年(大正9年)「戦後恐慌」、1923年(大正12年)「関東大震災」、1927年(昭和2年)「金融恐慌」と慢性的な不況が続き、最大の山場は1930年(昭和5年)「昭和恐慌」です。政府や大企業の経営者は、その未曾有の恐慌からの脱出を合理化に求めましたが、合理化の重点は操業の短縮や人件費の削減に置かれたため、結果、中小企業の倒産が相次ぎました。当時の国内人口約6000万人に対し、失業者は約250万人。街は失業者で溢れ、日本最悪の大量失業が顕在化したのです。国民の購買力も著しく低下し、国内小売業の3割に相当する約3万の小売商が倒産か夜逃げという惨状。さらに、冷害という不運も重なった農家の貧困も激しく、農家女児の身売りが大きな社会問題にもなりました。

 当時の新潟新聞(現・新潟日報)記事に、「不況のドン底 に呷吟(しんぎん)する燕町民。金属食器工は全て欠食。昼食は鮒。」と記されているように、魚釣りで飢えを凌ぐほど、燕三条の地場産業も被害は甚大でした。新潟県内の地場産業の賃金は半減以下、農作物価格も半値以下に落ち込むなど、多くの事業所や県民の負債は膨らむ一方で、それが約10年間、好転することのない泥沼状態でした。その減収補填や負債解消のために、男性は主に東京へ、女性は隣県である長野県の製糸業などへ出稼ぎに行きました。昭和恐慌を機に、男性はそのまま定住するケースも多く、都内の風呂屋や古本屋などの創業者は新潟県民が多いことからも、新潟人の辛抱強さと勤勉さは、未開の土地を切り拓く開拓移民の資質に合っていたと思われます。一方、東京へ移住した県人の団結力と相互扶助は、昭和恐慌以降さらに強固となったと言います。新潟県人会は東京における全国の県人会の中でも最大級の組織として、現在も連綿として継承されています。

 上記の通り、燕の洋食器業界も昭和恐慌の影響は甚大でした。決定打となったのは、昭和5年、銀座5丁目「十一屋商店」の倒産です。宮内庁御用達であり、全国の有名ホテルなどが主な納品先である食器業界の名門。十一屋商店の発展と共に、燕の洋食器の高級化と技術力向上が図られてきただけに、燕の街に衝撃が走りました。燕製品の納品窓口であった燕市宮町「捧吉右衛門商店(現:燕物産)」社長・捧吉右衛門氏は、あくまで高級路線を貫こうと、海外市場へ目を向けます。安価製品を製作し、全国の小売店へ売り込みをかければ、一時的な産地の安定化は図れたものの、捧氏は単身で海外へ乗り込み、三井物産の現地駐在員と同行して営業活動を開始します。当時の海外需要は、欧米のブランドが圧倒的シェアを占めており、世界市場の開拓は容易ではありませんでした。しかし、燕の技術力を結集し、三井物産の絶大なる貢献も受け、無名ながらも高い品質が認められ、次第に本場の欧米で販路を拡大。世界のレストラン業界が注目する産地へと発展していきます。

 玉川堂も大正時代からの恐慌続きの煽りを受けて倒産寸前であり、倒産した銅器屋も続出しました。当時、目先の売上を重視し、溶接を使用した安価な銅器の製作が燕で大流行し、一時、銅器の生産量が急激に伸びた年があります。しかし玉川堂4代目は、あくまで高級路線を貫き、大得意様であった新潟県内の大地主2名から、定期的に高級品のご注文をいただくことで技術力の向上を図り、同時に倒産を免れました。その頃、たまたま玉川堂工場見学へお越しになった横浜高等工業学校(現:横浜国立大学)校長・鈴木達治氏が、技術継承に感銘し、横浜市の補助金を玉川堂のために斡旋してくださったため、昭和5年の昭和恐慌の最中にも関わらず、横浜分工場の開設が実現したのです。まだ20代であった私の祖父・5代目が工場長となり、職人を引き連れ、背水の陣で横浜へ移住しました。開設後も鈴木氏のご支援は絶大で、当時の横浜市長・大西一郎氏をはじめ、横浜経済界約30名が発起人となった玉川堂後援会が発足され、関東の販路開拓や各企業の記念品などの面倒を見ていただいたことで、玉川堂は未曾有の大不況を乗り越えることが出来たのです。

 「不況またよし。不況は改善、発展への好機である」。昭和恐慌を教訓とし、後世へのメッセージとして残した松下幸之助の言葉です。さらに、「景気の悪い年はものを考えさせられる年。だから、心の革新が行われ、将来の発展の基礎になる」とも語っています。燕三条の金属加工業の昭和恐慌における対応を調べると、時流に流されず、目先の利益は追わず、不況だからこそさらに技術力向上に目を向けた企業が、老舗企業として今も産地を牽引しています。コロナ禍において、様々な地場産業の歴史を学ぶことを私なりの命題とし、燕三条の歴史書は全て目を通すこととし、新潟県各市町村の歴史書も閲覧していますが、そこには昭和恐慌の壮絶なドラマを垣間見ることが出来ます。新型コロナの影響で世界経済は大恐慌時代へと突入し、日本経済も昭和恐慌に匹敵するレベルにまで不況が拡大する可能性があります。昭和恐慌時、地場産業や経営者たちはどのような対応を取ってきたのか。そこには、コロナ禍の今学ぶべきこと、新型コロナを克服し、日本経済を再生させるヒントが隠されていると考えています。