[第143号] 大河津分水に象徴される、不屈の燕三条

 新潟県の中央に位置する広大な越後平野は、低湿地の上、信濃川は幾筋にも分かれて曲がりくねっており、大きな水害が数年に1度の割合で発生していました。ひとたび信濃川が氾濫すると広域に渡って水に浸かり、さらに、行き場のない水が容易に引かないため、水死だけでなく、赤痢やコレラなどの伝染病でも多くの人命が奪われました。新潟出身の歌人・良寛に「この世に神がいるなど疑いたくなる」と言わしめるほど毎々の被害は甚大で、燕三条地域の農民たちは、信濃川の度重なる水害のたびに農作物が全滅するという生活苦に苛まれていました。約400年前の江戸時代初期、この逆境において、幕府より農民の副業として奨励された和釘づくりで、燕三条は金属加工産地としての礎を築いていくわけですが、それはこの土地の地形によってもたらされる水害との長い闘いを伴うものでした。

 この水害対策として、1700年代から、信濃川に人工的に分流を作り、洪水を日本海へ流す「大河津分水(おおこうづぶんすい)」の工事が発案されていました。しかしながら、全長約10キロの広大な土地を削り、途中、山も削る必要があったため、経費や技術面において課題が山積みで、なかなか実現には至りませんでした。その機運を変え、工事決断の決定打となった大水害が発生しました。明治29年、新潟最大の水害「横田切れ」です。現・燕市横田にて信濃川堤防が決壊し、越後平野全域が泥の海に。半年間、水が引かない地域もあり、約1200名の死者と広大な耕地流出をもたらしたのです。それから10年以上の準備期間を経て、明治42年、遂に工事が着手されました。規模の大きさと工事の難しさから「東洋一の大工事」と称され、欧州から最新の資材や機械を輸入し、日本最高の英知を結集させ、一大国家プロジェクトとして進められたのです。

 作業員の多くは、水害で貧困を極めた燕三条や長岡を中心とした農民などからなり、さらには「明治40年恐慌」の影響によって不況に陥った燕三条の多数の職人も工事に携わって日銭を稼ぎ、生活苦をしのいでいました。大正11年の通水、昭和6年の稼働まで作業員延べ人数1000万人を投入しましたが、当時、玉川堂も倒産寸前に追い込まれ、銅器職人が大河津分水の作業員として働いていた時期もあります。さらに、大正9年「1920年恐慌」、大正12年「震災恐慌」、昭和2年「金融恐慌」、昭和5年「昭和恐慌」と、立て続けに恐慌が起こり、燕三条も未曾有の不景気に。大河津分水で日銭を稼ぐことが出来たおかげで、燕三条の職人たちは辛うじて事業を継続することが出来たのです。これら不況期に追い討ちをかけたのが、大正7年〜9年の「スペイン風邪」です。日本でも大流行し、新潟県は国内最大の40万人以上という感染者数が出ました。実に県民4人に1人が感染するという新潟最悪の感染病の影響も甚大で、燕三条の景気悪化はさらに深刻なものとなりました。

 しかし、このような状況の中で、燕三条の職人たちは不況を逆手にとって事業転換や商品開発を行い、未曾有の大不況を克服していったのです。当時、他産地の安価な琺瑯製品やアルミ製品などの台頭により、燕三条は事業転換を迫られていた時代。銅器・煙管・矢立の三大基幹産業が総じて衰退する中で、職人たちは培ってきた技術力を軸に、洋食器の製作など、金属加工の新たな局面を拓いていきました。一方で、当時の玉川堂当主である4代目玉川覚平は、度重なる不況下でも新事業には目もくれず、不景気による高級品への需要低下にも動じず、一貫して高級品路線と高度な技術研鑽を貫く形で不況に応じ、技術の保持と向上に努めました。形は様々であっても、大きな壁に直面した時にこそ生まれる、燕三条の職人たちの現況打開への知恵と気性。その源には、幾時代の水害や不況を乗り越え、逆境の中で育まれてきた「ものを生み出す」技術力への自信と、その歴史を受け継いできた職人としての誇りが、確かに根付いているのです。

 燕三条の悲願でもあった大河津分水の通水。かつて悪水に苦しめられた水田は、湿田から乾田化され、それにより新潟米の質は格段に向上しました。さらに、洪水被害が減少したことで交通網が発達し、新たな産業も次々と興り、それに伴って燕三条の金属加工産地も大きく飛躍しました。100年前、通水記念に植えられた大河津分水の河川敷の桜は、燕三条最大の桜並木であり、日本さくら名所100選にも指定されている観光名所です。今を生きる私たちの置き土産でもあり、大河津分水のおかげで、金属加工産地・燕三条が存在することの証でもあります。新型ウイルスが蔓延し、大正時代に燕三条の職人たちが経験した苦難を、今まさに私たちが経験していますが、それでも大正時代の苦難から比較すれば、まだ傷は浅いのかもしれません。これまでとは別の視点からの価値の創出につなげ、新時代の燕三条を構築していくことが、燕三条の不屈の職人魂を継承し、大河津分水に携わった方々への報いになるものと思っています。
 
参考:大河津分水(燕市観光協会HP)

大河津分水について