[第132号] 150年前のジャポニスムの潮流を2020年に 〜葛飾北斎〜

 江戸時代に一世を風靡した浮世絵師、葛飾北斎(1760〜1849年)。「冨嶽三十六景」や「北斎漫画」を代表とする浮世絵は、遙か海を超え、ゴッホやゴーギャンら絵画の巨匠にも多大な影響を与えました。その功績は北斎の没後150年以上を経てもなお讃えられ、米国の有名誌が企画した世界で一番有名な日本人として、彼の名前が挙げられています。江戸時代の平均寿命が50歳ともいわれる中、90歳という長命で、生涯約3万点もの作品を残し、自らを「画狂人」と称するほど終生描くことに情熱を燃やし、画業一筋の人生を歩んできました。江戸末期から明治初期にかけて浮世絵をはじめ様々な日本の美術、工芸品などがヨーロッパにわたり、特に葛飾北斎の浮世絵は、そのジャポニスムを引き起こす原動力となりましたが、今、葛飾北斎ブームが再び世界的な潮流になっており、第2次ジャポニスムの到来を予感させます。

 葛飾北斎の名がヨーロッパに知れ渡る契機になったのは、日本の陶磁器をヨーロッパへ輸出する際、梱包材として浮世絵が使用されたからです。当時の浮世絵は芸術作品というより、庶民の娯楽として気軽に親しまれていました。ヨーロッパの美術関係者が梱包材の浮世絵を見た時、大胆な構図や鮮烈な色使いなどに衝撃を受け、以降、陶磁器だけでなく、浮世絵の輸入も合わせて要求するようになりました。中でも高い評価を受けたのは「富嶽三十六景」。有名な「神奈川沖浪裏」は、富士山と大波が描かれていますが、遠近法を完全に無視しており、実際の描写とは全く異なる、ある種の空想画と言えます。当時の西洋画は、出来る限り写真のように忠実に再現することが重要視されていましたが、その概念を打ち破る浮世絵の存在は、前衛芸術として瞬く間にヨーロッパ中に広がっていったのです。フランスの作曲家、ドビュッシーも、交響曲「海」のオーケストラ用の楽譜の表紙に、この「神奈川沖浪裏」を使用しています。

 ジャポニスムから約150年。近年、再びヨーロッパで葛飾北斎ブームが起こっています。その発端は2011年にドイツの日独交流150周年の記念イベントで開催された「葛飾北斎展」で、以降、パリ、ロンドン、ローマなどでも相次いで大規模な展覧会が催され、どの会場も記録的な観客動員を達成しました。北斎が人々を惹きつける力は現代に於いても不動であることの証と言えるでしょう。ヨーロッパでの再ブームは、日本にも影響を及ぼしており、オリンピックが開催される2020年夏を中心に、東京都美術館(上野)での浮世絵展、日経主催「UKIYO-E 2020」など、浮世絵を通じて日本文化の魅力を発信するイベントが目白押しです。スポーツの祭典として知られるオリンピックですが、その理念が記されたオリンピック憲章には「オリンピックはスポーツとアートのマリアージュ」とアートの重要性が説かれており、葛飾北斎を中心とした浮世絵が大きくクローズアップされます。

 さらに、葛飾北斎ブームを後押しする政策が、3年前に外務省から発表されました。浮世絵を日本文化の象徴とすべく、日本人パスポートの出入国の際にスタンプを押す査証欄の新たなデザインとして、「富嶽三十六景」が採用されることが決まり、大きな話題となりました。「神奈川沖浪裏」はヨーロッパではグレートウェーブと呼ばれ、モナリザの次に有名な絵であり、日本を象徴する絵でもあります。大幅なデザイン変更は約70年ぶりで、昨年12月河野外務大臣は、東京オリンピックに合わせ2020年3月に新デザインのパスポート導入を正式に発表し、以降ますます葛飾北斎ブームに火が付いた感があります。現在のパスポートは、全ページに桜がデザインされていますが、今後はデザインが異なる「冨嶽三十六景」の各作品が全ページを彩り、パスポートはまさに葛飾北斎の作品集と化します。

 ヨーロッパをはじめとする世界で、アートが一握りの上流階級のものであった頃、浮世絵は江戸の町人を中心に、かつて文化の中心だった京都から伝わる文物に飽き足らなくなり、江戸の世を謳歌し、浮かれて暮らすこと(浮き世)を好んだ人々によって生まれました。役者絵や力士絵など、今で言うアイドルのポスターや野球・サッカー選手のカードのようなものから、各地の有名な風景や人々の生活を切り取った絵葉書のような当代の風俗画が、芸術の領域まで高まったのは、町人ならではの自由な発想があったからこそであり、その遊び心に満ちた視点が、国を問わず今尚人々の心に共感や驚きをもたらすのです。まさに浮世絵は、日本が誇るポップカルチャーと言っていいでしょう。世界の視線を一挙に集める2020年東京オリンピックというこの機会に、日本人である私たちこそが江戸のポップカルチャーを今一度味わい、生活を粋に楽しむ江戸の日本人のスピリットを改めて世界に発信したいものです。