[第58号]国際博覧会によって育まれた地場産業

 1798年、初めての博覧会がフランス革命期のパリで開催され、1851年には、複数の国が参加する国際博覧会・第1回ロンドン万国博覧会が開催されました。1855年に開催された2回目の国際博覧会・第1回パリ万国博覧会において授与されたメダル数は、グランプリ112、金賞252、銀賞2300、銅賞3900、選外佳作4000。その後、ほぼ毎年のように国際博覧会が開催されていきますが、生産者にとっては、祝祭的、演劇的空間に製品が展示されることで、日常の使用価値とは次元が異なるプラスアルファの価値が生まれます。また、グランプリを獲得すれば、ブランド価値は一気に高まるため、マスメディアが発達する前、博覧会は世界へと発信する最高の場として、極めて影響力のあるイベントでした。

 ルイ・ヴィトン、エルメス、バカラなどは、博覧会の産業部門の受賞によって世界にその名を轟かせた代表的なフランスのメーカーですが、世界多数のメーカーが博覧会グランプリを受賞し、その後のビジネスの発展に大きな影響力をもたらしています。フランスワインの国際化も、博覧会が契機になっています。第1回パリ万国博覧会の農産部門では、ボルドーワインに1級から5級までの格付けが行われましたが、現在もその格付が買い手の目安の一つになっており、1級格付けのラフィット、マルゴー、ラトゥールなどは、博覧会の恩恵によってワインのトップブランドへと成長。産地とその周辺だけで消費されていたフランスワインは、世界へと輸出されるようになりました。

 日本が国際博覧会へ公式初参加したのは、1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会です。日本は200年以上鎖国状態を続けていたため、博覧会出展によって欧州の技術・意匠、その背景にある経営力の素晴らしさに大いなる刺激を受けます。日本はその欧州の思想や技術を学び、博覧会が回を重ねるごとに洗練された製品を出品。一方、欧州も未知の国「日本」のレベルの高さに驚愕し、日本の技術や意匠を製品に取り入れる風潮が生まれ、次第に日本ブームが興りました。いわゆる「ジャポニズム」です。欧州と日本は、お互い負けじと技術力の競いに激しさが増し、技術力向上に莫大な経費を投入。国際博覧会は「血を流さない戦争」と表現されるようになりました。

 明治政府は、日本製品の輸出拡大と国際的宣伝、さらには海外の進んだ技術を学ぶことを目的とし、日本全国多数の生産者へ対し、国際博覧会の出展を促しました。この明治政府の政策を受け玉川堂にも声が掛かり、ウィーン万国博覧会を皮切りに多数の国際博覧会に出展しています。当時は、一般家庭で使用される鍋、釜、薬缶など、日常雑器の製作のため技術力に乏しく、玉川堂3代目・玉川覚平は、独自の技術だけでは限界があると、東京の日本画家と彫金師を玉川堂へ招聘。海外博覧会受賞で名声を得るべく、本格的な美術工芸品の製作を開始しましたが、明治政府の博覧会出展の奨励策が、技術力向上の大きな契機となっています。

 諸外国の国際博覧会へ参加し、その有用性を大きく体感した明治政府は、さらに国内の産業発展を促進させ、日本の技術を西洋の水準や需要に適応すべく、日本国内の生産者のみを対象とした博覧会を開催しました。日本全国、さらに多くの生産者が博覧会へ参加し、優れた製品群を目の当たりにすることで、生産者のモチベーションが高まり、徐々に地場産業全体のレベルも高まっていきました。現在、日本国内には215ヶ所の伝統的工芸品の産地が存在しますが、その多くは、博覧会出展の奨励策によって産地が発展。特に漆産業の世界はこの政策の恩恵が大きく、明治維新によって大きく衰退した全国の漆産業を見事に甦らせています。

 国際博覧会は脈々と受け継がれており、2010年上海博覧会の次は、2年後の2015年、ミラノ博覧会です。テーマは「地球に食料を、生命にエネルギーを」。現在、日本館の出展内容を検討すべく、経済産業省が博覧会準備室を設置し、日本の食と器などを融合させたジャパンブランド確立を目指しています。ミラノ博覧会を通じて、日本の農業と地場産業を組み合わせ、世界市場を開拓する絶好の機会であり、折しも、TPP問題で揺れる農業界ではピンチをチャンスとして捉え、農産物の輸出を目指し、意気込んでいる若手農家も見受けられます。農業と地場産業が連携し、本格的に海外市場を開拓していくことは、日本では初めての試み。ミラノ博覧会成功のために、そしてジャパンブランド確立のために、弊社も微力ながら尽力していきます。