[第44号]吉田松陰、その劇的な生涯と熱誠の教育

  幕末の動乱期、後に明治維新を打ち立てることになる多数の門下生を輩出したことで有名な松下村塾。そして、そこで数多くの才能を見出し育んだ、稀代の教育者・吉田松陰(1830年8月4日~1859年11月21日)。2年前、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響により、幕末が大きな脚光を浴びましたが、そこで坂本龍馬が師と慕い、明治維新の立役者である吉田松陰がクローズアップされ話題となりました。さらに、同じく2年前には、吉田松陰の獄中を感情豊かに描いた映画「獄に咲く花」が人気を博したこともあり、吉田松陰は一躍時の人に。以降、吉田松陰を題材とした書物が多数出版され、理想の教育者、さらには理想の政治家として、その注目度は年々高まっています。

 封建制度が崩壊し、近代国家へと移行する明治維新は、日本の歴史の中でも、大変革期として位置付けられています。この明治維新はいつから始まるのか、専門家でも諸説ありますが、多くの見解は、吉田松陰による「下田踏海」です。吉田松陰は、ペリーの黒船来航によって日本への危機感を募らせ、その黒船を利用して海外密航を企てたことが、明治維新の始まりという説です。当時、吉田松陰は25歳の青年。鎖国政策で日本が海外と断絶している間に、ヨーロッパでは時代が大きく進化しており、日本に対する危機意識から、西洋の実態を自らの目で確かめようとしての密航でした。幕府の鎖国政策によって、諸藩が自由に貿易をして経済力を貯蓄することを防ぎ、幕府に刃向かう武力を持たせないようにする政治に対し、真っ先に対抗したのが吉田松陰だったのです。

   その密航は結局失敗に終わりましたが、吉田松陰は黒船来航によって日本の武力は、西欧列強に及ばないと知り、開国によって貿易を開始することで日本の経済を豊かにし、尊王攘夷の志を固めます。そして、変革思想を磨き上げつつ幕府の反動政治に挑んでいきます。その実践として、松下村塾を開き、倒幕への教育を行いました。しかし、安政の大獄が勃発すると、幕府の大老・井伊直弼は、反幕運動における最大の危険人物として、吉田松陰を捕らえ斬刑に。30歳という若さでした。これを契機に、幕府政治の矛盾はみるみるあらわとなり、師匠・吉田松陰の心を汲み取り、門下生は倒幕という大きな目標に向かって身を投じていくことを決意します。吉田松陰の身は滅びても、先駆者として残した思想と行動規範は生き続け、倒幕への動きは全国へと展開していきました。

   さて、吉田松陰が繰り広げた教育の舞台、松下村塾。身分によって教育の場を区別していた時代、身分関係なく平等に学問を教えていました。知識や見識だけでなく、身体全体から溢れる情熱や真心で倒幕論を展開し、門下生の心を動かしました。松下村塾での教育は、かつてイエス・キリストに出会った使徒たちが、まるで生まれ変わったかのように、命懸けで宣教したことを連想させます。自分たちが国を動かし、新しい日本を構築していくという強烈な信念と、その体現化された政治的情熱が多くの青年層を惹き付け、国家の礎となるスケールの大きな俊才、逸材を多数輩出しました。門下生である伊藤博文、山縣有朋、木戸孝允、品川弥二郎などは、後の明治政府の指導者として活躍。明治政府を構築、発展させたのは、まさに松下村塾の塾生でした。

   死に直面した吉田松陰は、自身の国を想う気持ちを永久に残こしてほしいと、門下生に託した遺書「留魂録」を死刑前日までに書き上げています。吉田松陰の無念さと同時に、自分が死んでも、門下生たちは必ず革命を起こし、新たな日本を創ってくれるだろうという期待と願いが、ひしひしと伝わってくる遺書です。中でも有名な句が「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」。死後、門下生の間で廻し読みされ、門下生を奮い立たせました。以後、遺志を受け継ぎ、新たな日本を構築していこうと一致団結し、本格的に倒幕活動を始めることに。
誰よりも日本の将来を真剣に考え、身をもって実行してきたからこその遺言が、長文に渡り記されています。

   当時、欧米列強が日本を植民地化しようと画策し、武力を持って迫ってきたものの、徳川幕府はなす術もなく権威を失墜。日本全体が大揺れに揺れていた激動と動乱の時代でした。明治維新が成功しなければ、日本は多くのアジア・アフリカ諸国同様、欧米列強の植民地になっていたとも言われています。このような背景からしても、吉田松陰という人物の存在なくして明治維新を語ることは出来ず、吉田松陰が存在していなければ、明治維新は無かったか、かなり遅れていたと思われます。今、日本の政治経済は、新しい時代の創出が求められています。時代背景は異なれど、吉田松陰の生き方は、これからの日本に対し、大きな問い掛けになっていくことでしょう。