[第4号]地場の歴史を見つめ直す

不死鳥の燕。燕市は世界的金属加工産地として知られていますが、数々の業種転換を余儀なくされ、常に苦難の道を歩んできた産地でもあります。燕の金属加 工の起源は今から約400年前、度重なる洪水被害に苦しむ燕の農民を救済すべく、幕府の代官が和釘作りを奨励したことに端を発し、次第に全国有数の和釘産 地として成長していくことに。

しかし、明治に入り、開港によって安価な洋釘(現在の丸い釘)が大量に日本へ輸入されると、和釘の需要は激減。燕は、和釘以外の新たな金属加工製品の開 発を余儀なくされました。その頃、燕の近郊の弥彦山から優良な銅が産出されたこともあり、銅を使用し、鎚起銅器、矢立(携帯用書道具)、煙管(キセル)な どの製品が新たに産み出されました。この業種転換は順調に進み、再び金属加工産地として甦ることが出来たものの、大正時代に入り、安価なアルミや機械力の 台頭で鎚起銅器が、万年筆の出現で矢立が、紙巻タバコの出現でキセルが衰退していきました。燕の金属加工業は再び壊滅状態に陥ったのです。

このような状況下、燕の職人は手作業で洋食器の試作を開始。バイヤーからの技術的な細かい要求にも難なくこなした燕は、取引先の信頼を得て、洋食器製作 は本格化されます。一度火が付くと、一気に加熱するのが燕。洋食器の生産量は破竹の勢いで増加し、世界的洋食器産地として大躍進を遂げたのです。いつの時 代も、衰退してはまた新たな産業を興し、400年間、頑なに金属加工産地を守り続けてきた燕。いつしか「踏まれてもまた芽を出す燕」、そして、「不死鳥の 燕」とまで表現されました。

この燕の金属加工産業の歴史は、燕市産業資料館で学ぶことが出来ます。江戸時代の燕の職人は、自分で製作したモノを自分で売るという、会話のあるモノづ くりを実践していたのですが、この製販一体制は、メーカーとしてあるべき経営手法であると、私は考えています。また、展示品である大正時代に製作された洋 食器は、フォルムに全く無駄がなく、バランスとプロポーションがとにかく絶妙。これぞ究極のデザインと、感動しました。

全ての技術、モノには歴史的つながりを持って存在しており、歴史をしっかりと認識し、自分なりに包括していくことは、歴史が積み重ねた良い点を育て、歴 史をさらに進めていくことになります。今、未曾有の不景気に陥っていますが、各企業、各産地において、より独創力を求められる時代となっています。この独 創力に磨きを掛けるための基本となる考え方として、今一度、各自の地場の歴史を見つめ直すことではないかと思っています。経営やモノづくりの本質は、それ ぞれの地場の歴史の中に隠されているものであり、地場の歴史を見つめ直すことの重要性は、より増している時代ではないかと考えています。