[ 第23号 ] 時代を動かず万国博覧会

先月、史上最大の万国博覧会・上海万博が開幕しました。中国政府は各界からの知恵を集結させると共に、莫大な労力と金銭を投入し、発展途上国として初め て万国博覧会を実現させました。飛躍的な高度成長を続ける中、北京オリンピックと共に、中国政府が国家の威信をかけて取り組んできた巨大プロジェクト。上 海万博は中国の発展、実力を世界に示す絶好の機会となりますが、上海万博を通じ、日本と中国の友好関係、ビジネス交流がさらに深く、強くなる機会として も、大いに期待しています。

東西の技術と芸術が出会う場所。それがまさに万国博覧会でした。今から約140年前、西洋は精密な技巧によって作り出された日本の芸術を驚きをもって迎 え、一方、日本は西洋の技術と新しく流行するスタイルを学び、貪欲に吸収していきます。万国博覧会は、世界中の文化と技術の交流と発展を目的とし、 1851年にロンドンで初めて開催され、日本が公式に初参加したのは1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会です。万国博覧会で異国の文化を目の当た りにすることで想像力をかきたてられた人々は、新たな芸術を生み出し、アールヌーボーをはじめ万国博覧会が生んだ芸術は、調べるほどに新しい発見がありま す。

また、万国博覧会は、今の日本の伝統工芸産業を大いに活性化させる存在でもありました。明治政府は、日本の技術を西洋の水準や需要に適応させていく中 で、工芸を地場産業として発展すべく、全国の生産者に対し博覧会出展を積極的に奨励しました。玉川堂2代目・玉川覚次郎にも出展要請があり、ウィーン万博 を皮切りに、多数の海外博覧会に出展しています。それまでは「薬缶屋・覚兵衛」の名称で、鍋、釜、薬缶などの日常雑器を製作していましたが、ウィーン万博 出展を機に美術的要素を加えた銅器を開発し、工房名も「玉川堂」と改名。商品の近代化を図る素晴らしい機会を、明治政府から与えていただきました。

万国博覧会の存在が日本の技術力を高め、また、西洋の進んだ技術を目の当たりにした明治政府は、日本の技術力を世界に示そうと万国博覧会の誘致に乗り出 します。1907年の誘致失敗、1940年の日本開催決定直後の戦争による休止を経て、1970年の大阪万博は3度目の正直でした。大阪万博は今年で40 年が経過しますが、私(1970年生まれ)の世代から上の人々には、博覧会のDNAは今も生き続けています。緑豊かな公園として整備された跡地にたたずむ 太陽の塔を眺める時、誰もが古き良き高度経済成長期の日本に想いを馳せると言います。

大阪万博は博覧会史上最高の入場者数を記録し、大成功をおさめましたが、それ以上に、日本人の生活に大きな影響を及ぼしました。会場内に示された未来像 や最先端技術は、万博終了後40年後の私たちにとって日常的なものとなり、日々の暮らしをサポートする道具として欠かせないものになっています。博覧会の 成否は期間中の入場者数や直後の風評だけで判断するのではなく、10年後、20年後に回顧する時、社会に対しどのような問題提起がなされ、またその時代に 生きる人々が、いかなる刺激を受け新たな価値を入手したのか、という点も判定すべきでしょう。

現在開催中の上海万博のテーマは「より良い都市、より良い生活」。大阪万博が内需拡大の起爆剤になったように、中国でも同じく内需が拡大され消費活性化 をもたらし、「より良い都市、より良い生活」が中国全土に広がることを期待しています。少子高齢化社会を迎えた日本の経済の発展は内需だけでは限界があ り、我々伝統産業に生きる者としても、隣国の中国とのビジネス交流は欠かせないものになります。弊社は昨年から中国とのビジネスを開始し、今年10月に は、初めて中国での弊社催事を上海市内で開催する予定になっています。その際、上海万博にも行き、今の中国経済の実態と博覧会の真髄を体認し、これからの 中国との関係のあり方をしっかりと検証する機会にしたいと思っています。