[ 第38号 ]本田宗一郎と井深大、町工場から世界へ

  昭和20年、日本の主要都市が焼野原と化し、敗戦のショックに誰もが途方に暮れていた時代、大きな夢を抱き、市場は常に世界へと目を向け、町工場の職人から世界人へと飛躍した人物がいます。本田宗一郎氏と井深大氏です。年齢は本田宗一郎氏が2歳上。同時期に創業し、共に失敗や倒産の危機を乗り越え、二人は「HONDA」と「SONY」をそれぞれ世界企業へと発展させていきました。同時代の名経営者として共通点が多く、よく対比させながらマスコミに取り上げられる事の多い二人は、お互いを尊敬しあう無二の親友同士でもありました。ものづくりにかける情熱が琴線に触れ合い、「お互いに頼んだことは必ず引き受けるという約束を結んだ間柄」であったそうです。

 「成功は99%の失敗に支えられた1%である」と本田宗一郎氏が語り、「トライアンドエラーを繰り返すことが経験と蓄積になる」と井深大氏が悟っている通り、失敗の連続が今日の「HONDA」と「SONY」を構築していきました。また、本田宗一郎氏は、「怖いのは失敗ではなく、何もしないことである」と語り、失敗を恐れない果敢なチャレンジ精神は、当時から秀でた存在として知られていました。井深大氏も「実現困難だからからこそ、挑戦する価値がある」と語り、常に独創的な発想で新製品を開発してきましたが、それだけに大きなリスクと隣り合わせでした。テープレコーダーやトランジスタの開発にしても、会社規模からは想像も出来ない多額の経費を注ぎ込み、他の経営陣を冷や冷やさせたと言います。

  また、独創性と技術力で敗戦後の日本を豊かにすることを自らの使命とし、市場は世界へと目を向け、常に世界一を目指していました。本田宗一郎氏の持論は「良品に国境なし」。世界との格差を知らずに日本一のメーカーになったとしても世界では通用しません。海外のメーカーが日本に参入してくれば瞬く間に席巻され、日本一は何の価値もないと考えていたのです。井深大氏は「世界初のものを創ってこそ、人より一歩先に進むことが出来る」と言い、さらには、開発した新技術は独占せず、国内他社にその技術の使用を認めました。競合させることで日本の電子工業全体が成長を遂げ、また、海外への輸出の気運を業界全体に促したことによって、日本は半導体大国、電子大国として世界的に認知されるようになったのです。

  2人は天才エンニジアとしての手腕を発揮しましたが、それだけでは世界的な大企業に発展させることは出来なかったでしょう。流通という「ものづくり」を構築していくためには、営業面において別な才能が必要となります。この点においても2人は、それぞれ「もう1人の創業者」と言われ、経営実務全般に大きな影響力を発揮する人材に恵まれていました。ホンダの藤澤武夫氏と、ソニーの盛田昭夫氏です。共に副社長として本田、井深両社長を支え、この秀でた右腕の存在もあり、町工場から瞬く間に世界的企業へと発展していくことになります。本田宗一郎氏と井深大氏が、新技術や新製品の開発に専念できたのも、藤澤武夫氏と盛田昭夫氏のバックアップがあったからこそと言えます。

  そして、本田宗一郎氏と井深大氏の人間的魅力にも、大きく惹かれるものがあります。本田宗一郎氏は退任挨拶の際、「従業員一人ひとりにお礼を言いたい」と口にし、日本全国の工場から小さな小売店まで「HONDA」の看板を掲げている数千ヶ所の事業所をすべて挨拶回りし、一人ひとり握手をして、ホンダ関係者は驚きと共に感激に浸りました。井深大氏は引退後、育児教育に力を注ぎ、財団法人幼児開発協会、ソニー教育振興財団を設立。教育の持論は「人の能力を決め付けていたら、その人の能力を引き出すことはできない」。ものづくり同様、人間の可能性と未来も信じて疑わなかった教育者でもありました。企業を成長させ、優秀な人材を次々と輩出させたことを裏付けるかのような引退後の生き方です。

  戦後日本という時代と共にあって、復興と世界中の人々の幸せに貢献するという夢を、ものづくりという創造を通じて実現させた二人。明日の発展のためには、どんな困難もいとわず挑戦し、多くの部下や関係者をも苦難に巻き込みました。しかし、二人は大きな夢と、その夢を実現させるための明確な目標を設定。部下や関係者を励ましながら世界無二の製品を生み出すことで、人の幸せに貢献することを喜びにしていました。経営においても、技術においても、創造力こそエネルギーの源泉となり、創造力は見果てぬ大きな夢から生まれます。しかし、夢をあきらめ、失敗を恐れる時、人間の創造力はしぼみます。夢を力にして駆け抜けた二人の生き方は、時代を超え、ますます新鮮に映り、日本のメーカーの代表的事例として、これらもさらに脚光を浴びていくことでしょう。