[ 第31号 ]燕金属洋食器100周年記念

   今年は全国的に100周年が多い年と言われています。東京では、日本橋架橋100周年、都営交通開業100周年、帝国劇場開場100周年などがマス コミで話題になっていますが、新潟県では、上越市に日本で初めてスキーが伝わり今年が100年目。「日本スキー発祥100周年」として、全国的に広報され ています。そして、新潟県燕市では、スプーンやフォークなどの金属洋食器の製作を開始して、今年が100年目。燕市長・鈴木力氏は、100周年記念事業に 補正予算を計上し、燕市を挙げてのPRを約束。今年1年を通じて「燕洋食器100周年」の記念事業が実施されます。

   明治時代、文明開化による洋風化の波が押し寄せ、日本でも西洋料理店が次々と開業しました。当時の金属洋食器は全て輸入品のため、東京の商社の企画で国 産の試作が行われましたが、どのメーカーも上手くいかず、試行錯誤が続いていました。そのような状況下、燕の鎚起銅器の存在を知った銀座の商社「十一屋商 店」が、燕の商社「燕物産」の捧(ささげ)吉右衛門氏に金属洋食器の製作を依頼しました。今から100年前の1911年(明治44年)のことです。捧氏は 親戚の「玉栄堂」(弊堂から独立)に依頼し、鎚起銅器の技術を応用した真鍮製の手作り金属食器を製作。これが高い評価を受けたのです。

   その情報を得た東京や大阪などの商社が燕市の技術力に注目。1914年から燕で本格的に金属洋食器の生産が始まり、次第に金属洋食器産地へと発展してい きました。その後、時流に乗り、燕製品が国内外へと流通され、製作開始から66年後の1977年(昭和52)年には、金属洋食器の事業所数482社、燕市 の前事業所の約63%を占め、世界的にも稀に見ぬ一大産地を形成しました。しかし、その年をピークに景気の後退による廃業や、新素材を活かした新アイテムを創出すべく業種転換を図る企業が続出し、1995年(平成7年)は事業 所数290社、2003年(平成15年)は185社、そして昨年(2010年)は53社と、著しい縮小傾向にあります。

   燕市の金属洋食器業界は、中国や東南アジアなどの安価製品に大きくシェアを奪われており、また、燕製品と品質が同じレベルの品でも、ヨーロッパ有名ブラ ンドの方が高価格で販売され、世界中の高級レストラン需要を満たしているという現実。しかし、そのような状況下、「山崎金属工業」の金属洋食器は、ノーベ ル賞の晩餐会に使用され、燕商工会議所「enn」の金属洋食器は、フランス料理界の巨匠「ジョエル・ロブション」氏の世界中の店舗で使用されるなど、新た な市場開拓の動きも出てきています。金属洋食器を使用する国が増え、世界的に高級レストラン開業も相次ぎ、今、潜在需要の掘り起こしの絶好の機会でもあり ます。

   イタリアの地場産業は、アジア諸国など他国との差別化を図るべく、手作業を主体としたハイエンド高付加価値の製品創出に特化したモノづくりが、国を挙げ て実践されています。道具としての機能性の追求と共に、イタリア人ならではの感性や美意識がモノづくりに反映され、世界中の富裕層を中心に、コアな愛好家 から絶大なる支持を得ています。イタリアは大企業が存在せず、町工場を中心とした中小企業によるブランディングが盛んな国であり、職人の地位は高く、ま た、国の職人育成機関も大変充実しています。町工場から次々と高感度の製品が輩出されるイタリアの地場産業は、今まさに日本の地場産業が参考にすべき好事 例と言えるでしょう。

  「燕市産業資料館」の金属洋食器展示室には、燕で初期に製作された手作り金属洋食器が展示されており、資料館を代表する名品の一つです。デザイン・機能 性に優れ、バランス感覚に富んでおり、何よりも手間暇を掛けた手作りの温もりを感じます。そこには、燕ならではの技術と感性が織り込まれており、燕の洋食 器を飛躍させるための大きなヒントが隠されているような気がしてなりません。今年、燕金属洋食器100周年を迎え、新たな100年を歩むにあたり、日本な らではのモノづくり、燕でしかできないモノづくりを再構築していく時であり、「燕金属洋食器100周年」を機に、より一層地域一丸となって地場産業活性化 を図っていきたいと、心新たにしております。