【第216号】工芸の発展に貢献した「北前船」

 「北前船(きたまえぶね)」は、江戸時代中期から明治30年代にかけて、日本の運送業の中核を成し、二本の経済を支えた商船です。主なルートは、大阪から瀬戸内海経由で関門海峡を抜け、日本海側を横断して北海道へ移動し、そこから復路へ。北前船の要所である日本海側には約100の寄港地があり、食品・衣類・工芸品・資材などを運搬し、各地の地場産業や食文化の発展に、多大な影響を与えました。日本は19世紀まで、第一次産業が中心であったことから、農業の主役である「米」の栽培に適した日本海側が日本の経済を牽引しており、その物流を担っていたのが「北前船」でした。

 北前船の船主は花形の職業であり、売上は「一航海千両(1億円以上)」と言われ、他の職業とは比較にならない程の高収入を得ていました。北前船の特徴は、荷物を運ぶことで利益を得るのではなく、船主が寄港地で買い付けた品を、別の寄港地へ運んで販売する「買い積み」にあります。例えば、北海道の昆布は大阪において高値で販売され、逆に大阪の衣類は北海道において高値で販売されていました。情報網が発達しておらず、地域間の価格差が顕著な時代であったことから、安く仕入れて高値で販売する、利幅の大きい取引が成立していたのです。一方、当時は天候の変化を知る術がなく、海難事故は頻繁に発生したほか、「買い積み」のため、事故での損失は船主の負担となり、高収入を得やすい反面、リスクの高い商売でもありました。

 日本の伝統工芸は、主に日本海側を中心として発展しましたが、その要因の一つとして北前船の存在が挙げられます。日本海側の工芸産地は、日本最大の物流である北前船と連携することで販路が拡大し、さらに、北前船で巨富を得た全国の豪商から特注品を受け、1年以上かけて製作し、完成品を北前船で納品するビジネスモデルも構築されました。また、それらの豪商は、パトロンとなって地元の工芸品も積極的に購入し、地域経済を潤すだけでなく、高級品の製作を繰り返すことで、職人の技術力向上にも繋がりました。そして、北前船による流通改革によって、全国の工芸品が職人たちの目にも留まるようになり、それらの作品からインスピレーションを受け、技術や意匠に独自色を打ち出し、日本の工芸レベル向上に寄与しました。

 北前船の寄港地は、旅籠や花街などが発達し、華やかな街が形成されていきましたが、その代表的な街の一つが新潟です。主力商品の「米」を武器として、日本海側随一の街として栄え、北前船で財を成した豪商や豪農の館が、多数現存されており、新潟の観光名所となっています。明治時代中期には、新潟県が全国一の人口を誇り、全国の長者番付には新潟県人が多数君臨。技芸文化も栄え、祇園(京都)・新橋(東京)・古町(新潟)は、日本三大花街に数えられています。新潟の伝統工芸も、それらの豪商や豪農から多大なる支援を受けたことによって、多種多様な工芸が発展し、現在、京都と並ぶ全国有数の工芸産地数となっています。玉川堂においても北前船の影響力絶大で、2名の支援者に支えられた歴史があり、高級品を製作しては、即座にご購入され、幾度となく倒産の危機を救っていただいたことから、玉川堂に残る文献には、「恩人として、後世に伝えて欲しい」と、記されています。

 北前船は、日本の工芸を素材・技術・市場の面から、人や地域を紡ぐ、多大な功績を残しましたが、「素材」の観点から特筆すべき地域として、島根県出雲を中心とした中国地方の「鉄」が挙げられます。当時、全国の約8割を生産する産地で、北前船で運ばれた鉄は、各地で農具や薬罐・鍋などの台所用品に加工され、日本の生活文化を支えました。さらに、刃物産地の発展にも影響力を発揮し、燕三条の伝統工芸「越後三条打刃物」は、出雲の鉄や鋼が安定的に供給できたことで産地として発展。最寄りの出雲崎港(新潟県出雲崎町)は、島根県「出雲」の地名を採用したと言われています。これら北前船の歴史や功績を風化させることなく、産業や観光の振興へ繋げていこうと、17年前より、北前船の寄港地の自治体が運営する、「北前船寄港地フォーラム」が毎年開催され、今年は新潟開催(10月)となります。私たち工芸に携わる者にとっても、北前船の影響力は計り知れないものがあります。北前船の歴史を学び、その功績を次世代へ繋げ、工芸の発展にも活かしていきたいものです。