雪国新潟で二百年に渉り銅器づくり一筋に歩んできた玉川堂、幾時代の風雪を乗り越え、国内で唯一鎚起銅器の技を継承しています。


世界有数の金属加工産地、燕。
そのルーツは、江戸時代初期、和釘づくりが始まったことに端を発します。
江戸時代後期、仙台の渡り職人が燕に鎚起銅器の製法 を伝え、弊堂の祖、玉川覚兵衛によって受け継がれました。
燕に銅器製造が発展した背景には、近郊の弥彦山から優良な銅が産出され、素材の入手が容易であったためです。
日常銅器(鍋、釜、薬罐)の製造から、漸次工芸品的要素を加え、明治六年(西暦1873年)、
日本が初めて参加したウィーン万国博覧会に出品し、戦前までに約三十回内外博覧会に出品受賞しました。
明治二十七年(西暦1894年)には明治天皇御大婚二十五周年奉祝に一輪花瓶を献上し、
皇室の御慶 事には玉川堂製品の献上が習わしとなっています。
現在、新潟県より「新潟県無形文化財」、文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」、
経済産業大臣(旧通商産業大臣)より「伝統的工芸品」に指定され、
国内唯一の鎚起銅器産地の発展に努力しています。
仙台の渡り職人藤七より鎚起銅器の製法を継承し、日常銅器の製造を始める。
燕鎚起銅器の産業創始の功を讃えられ、明治34年、時の農商務大臣より追賞を受ける。

初代 玉川 覚兵衛 作 「鍔薬罐(つばやかん)」 (江戸時代後期)
漸次工芸品的要素を加え、明治6年、日本が初めて参加したウィーン万国博覧会に出品し、
燕鎚起銅器の名を全世界に馳せる。以後戦前まで約30回内外博覧会に出品。
明治26年、世界コロンビア博覧会、同43年、日英博覧会等で銀賞受賞。
明治27年には明治天皇御大婚二十五周年奉祝に一輪花瓶を献上。
以後、皇室の御慶事に玉川堂製品の献上が習わしとなる。
![]() 三代 玉川 覚平 作「飾香炉金象嵌」(明治23年) |
![]() 「明治天皇御大婚二十五周年奉祝」 一輪花瓶献上(明治27年) |
明治彫金界の至宝、海野勝眠に入門した後、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。
湯沸の口打出技法や着色技術の開発など、製品の近代化、多様化を図り、製品の美的向上に画期的な発展を遂げる。
明治時代、東京や京都で技術交流を行い、本格的な美術工芸の領域に到達。
当時、華麗な花瓶、香炉が製作され、国外内の博覧会で高い評価を得た。

四代 玉川 覚平 画 「花瓶花鳥図」 (大正時代)
第二次世界大戦により壊滅状態となった鎚起銅器業界を、戦後いち早く復興に着手。
昭和33年、新潟県より「新潟県無形文化財」に指定され、昭和55年には文化庁より
「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択される。

皇太子御成婚祝献上作復刻 五代 玉川 覚平 作 「純銀花器牡丹に孔雀」 (昭和34年)
幾多の職人を育て、昭和56年、「燕分水銅器協同組合」を設立。
当時の通商産業大臣より「伝統的工芸品」の指定を受ける。
平成14年、木目金(もくめがね)技術の第一人者、実弟・玉川宣夫が紫綬褒章を受賞し、
平成22年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
二百年に及ぶ父祖の業を継承。地場産業として国内唯一の鎚起銅器産地の発展のために努力。
平成20年、玉川堂の店舗・土蔵・鍛金場・雁木が、国の「登録有形文化財(建造物)」に登録される。