玉川堂の歴史

世界有数の金属加工産地、燕。
そのルーツは、江戸時代初期、和釘づくりが始まったことに端を発します。
江戸時代後期、仙台の渡り職人が燕に鎚起銅器の製法 を伝え、
1816年(文化13年)、玉川堂の祖、玉川覚兵衛によって受け継がれました。
燕に銅器製造が発展した背景には、
近郊の弥彦山から優良な銅が産出され、素材の入手が容易であったためです。

日常銅器(鍋、釜、薬罐)の製造から、漸次工芸品的要素を加え、
1873年(明治6年)、日本が初めて参加したウィーン万国博覧会に出品し、
戦前までに約三十回内外博覧会に出品受賞しました。
1894年(明治27年)には明治天皇御大婚二十五周年奉祝に一輪花瓶を献上し、
皇室の御慶事には玉川堂製品の献上が習わしとなっています。

現在、新潟県より「新潟県無形文化財」、
文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」、
経済産業大臣(旧通商産業大臣)より「伝統的工芸品」に指定され、
国内唯一の鎚起銅器産地の発展に努力しています。

歴代当主

初代 玉川 覚兵衛(1799〜1872)

初代 玉川 覚兵衛 作
「鍔薬罐(つばやかん)」
(江戸時代後期)


仙台の渡り職人藤七より鎚起銅器の製法を継承し、
日常銅器の製造を始める。
燕鎚起銅器の産業創始の功を讃えられ、
1901年(明治34年)、時の農商務大臣より追賞を受ける。


二代目 玉川 覚次郎(1829〜1891)

漸次工芸品的要素を加え、1873年(明治6年)、
日本が初めて参加したウィーン万国博覧会に出品し、
燕鎚起銅器の名を全世界に馳せる。以後戦前まで約30回内外博覧会に出品。


三代目 玉川 覚平(1853〜1922)

1893年(明治26年)世界コロンビア博覧会、
1910年(明治43年)日英博覧会などで銀賞受賞。
1894年(明治27年)には明治天皇御大婚二十五周年奉祝に一輪花瓶を献上し、
以後、皇室の御慶事に玉川堂製品の献上が習わしとなる。

三代 玉川 覚平 作
「飾香炉金象嵌」(明治23年)

「日英博覧会」(明治43年)

「日英博覧会」(明治43年)

「明治天皇御大婚二十五周年奉祝」
一輪花瓶献上(明治27年)


四代目 玉川 覚平(1881〜1947)

明治彫金界の至宝、海野勝眠に入門した後、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。
湯沸の口打出技法や着色技術の開発など、
製品の近代化、多様化を図り、製品の美的向上に画期的な発展を遂げる。

明治時代、東京や京都で技術交流を行い、本格的な美術工芸の領域に到達。
当時、華麗な花瓶、香炉が製作され、国外内の博覧会で高い評価を得る。

四代 玉川 覚平 画 「花瓶花鳥図」 (大正時代)

四代 玉川 覚平 画
「花瓶花鳥図」 (大正時代)

四代 玉川 覚平 作「花瓶古代瓦象嵌」(1921年)

四代 玉川 覚平 作
「花瓶古代瓦象嵌」(1921年)

四代目 玉川 覚平(1881〜1947)

「フィラデルフィア万国博覧会」
最高賞受賞(大正15年)

 


五代目 玉川 覚平(1901〜1992)

第二次世界大戦により壊滅状態となった鎚起銅器業界を、戦後いち早く復興に着手。
1958年(昭和33年)新潟県より「新潟県無形文化財」、
1980年(昭和55年)文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に指定される。

皇太子御成婚祝献上作復刻 五代 玉川 覚平 作 「純銀花器牡丹に孔雀」 (昭和34年)

皇太子御成婚祝献上作復刻
五代 玉川 覚平 作
「純銀花器牡丹に孔雀」
(昭和34年)

「新潟県無形文化財」指定(昭和33年)

「新潟県無形文化財」指定(昭和33年)


六代目 玉川 政男(1938〜)

幾多の職人を育て、1981年(昭和56年)「燕分水銅器協同組合」を設立。
当時の通商産業大臣より「伝統的工芸品」の指定を受ける。
2002年(平成14年)木目金(もくめがね)技術の第一人者、実弟・玉川宣夫が紫綬褒章を受賞し、
2010年(平成22年)玉川宣夫は重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。


七代目 玉川 基行(1970〜)

二百年に及ぶ父祖の業を継承。
地場産業として国内唯一の鎚起銅器産地の発展のために努力。
2008年(平成20年)玉川堂の店舗・土蔵・鍛金場・雁木を、
国の「登録有形文化財(建造物)」に登録。