玉川堂創業200周年 新年ご挨拶

謹んで新年の御祝いを申し上げます。
1816年、玉川堂初代・玉川覚兵衛が17歳の時に銅器製造を開始し、
以来、銅器製作一筋にあゆみ、今年2016年で創業200年を迎えました。
長きに渡る皆様方のご支援に、心から感謝いたしております。
玉川堂コーポレートスローガン「打つ。時を打つ。」を心に次の百年を見据え、
これからも皆様と共に「時を刻む」ものづくりを目指して参ります。
本年もよろしくお願い申し上げます。

2016年元旦
玉川堂7代 玉川基行


玉川堂200年の歴史と300年への将来展望
玉川堂7代 玉川基行

江戸時代初期、燕三条を流れる信濃川は数年に1度の割合で氾濫を起こし、農民は貧困を極めていました。その農民救済のための副業として和釘の製作が奨励されると、農作物被害のリスクを避け、農業から和釘製作へと業種転換する農民が相次ぎ、次第に燕三条は全国有数の和釘産地へと発展。燕三条に金鎚を使用する風習が生まれました。当時村上藩(現新潟県村上市)の支配下であった燕地域は、1650年頃、村上藩の指示により、この金鎚を使用する技術を応用した神社の金具など、銅細工の製作が行われるようになります。これから銅を使用する風習が生まれ、1700年頃、近郊の弥彦山から銅が産出されると、和釘と共に銅細工も一層盛んとなります。玉川堂初代以前の玉川家も、3代に渡って銅細工の製作を行っていました。そして、明和年間(1760年代)、仙台の渡り職人が鎚起銅器の製法を燕地域に伝えると、1816年、玉川堂初代玉川覚兵衛は、玉川家で代々継承されてきた銅細工製作から鎚起銅器製作へと移行。鍋・釜・薬鑵など日常雑器を製作し、弟子も5人以上抱え、燕地域で鎚起銅器の礎を築きました。

玉川覚次郎が2代目を継承した頃、日本の工芸業界に大きな変革が起こりました。1868年、明治政府の誕生です。明治政府は工業化の資源を得るために、全国の工芸業界へ海外博覧会出品を促し、輸出拡大を図る政策を掲げました。この政策は欧州の最新の工芸技術を学ぶことで、日本の工芸技術の向上を図ることも目的としています。日本の工芸業界はこの明治政府誕生とその政策を機に、日常生活道具から美術工芸品へと生産転化する気運が生まれました。田舎の小さな銅器屋である玉川堂にも海外博覧会出品の要請があり、これまでの日常雑器の製作から、海外博覧会へ出品するための美術工芸品の製作を開始し、日本が初めて公式参加した明治6年(1873)、ウィーン万国博覧会へ出品。以降、日本は海外博覧会出展の常連国として名を連ねます。また、明治政府の主導で日本国内の博覧会も頻繁に開催されたことで、日本の技術レベルは格段に進歩し、玉川堂も博覧会の存在によって、技術力向上に大きく貢献することとなりました。

明治15年(1882年)、2代目覚次郎の隠居に伴い、長男の覚平が30歳の時、玉川堂3代目に就任します。この時は、海外博覧会用の本格的な美術工芸品を製作しようと、新製品・新技術の開発を模索している真っ只中。新しい思考を玉川堂に取り入れ、海外販路を開拓していく転機の時期でもあり、ベストタイミングでの3代目就任となりました。3代目覚平は、鍛金(金属を叩いて器にする技法=鎚起銅器)では世界で通用しないと判断し、欧州の工芸と対等に競い合うためには彫金(銅器を彫るなどして模様を付ける)の技術が不可欠と考えました。そこで、玉川堂工場を増築し、彫金の図案は東京と三条地域の日本画家に描かせ、東京の彫金師と高田藩(現新潟県上越市)で失職した鍔師5名を玉川堂の職人として招聘しました。玉川堂は日本トップクラスの彫金技術を保有したことで、海外博覧会にて連続入賞し、明治27年(1894年)には皇室献上の栄誉を受け、以降、皇室の御慶事には玉川堂製品の献上が習わしになるなど、国内外で高い評価を受けるようになりました。

3代目覚平の経営手腕によって玉川堂は大きく発展したものの、招聘した彫金師の退職などによって彫金技術は徐々に弱体化。外部の彫金師を招聘するのではなく、身内から優秀な彫金師を育てようと、長男・健太郎(4代目覚平)を帝室技芸員・海野勝眠氏に弟子入りさせました。健太郎はさらに技術を高めるべく東京美術学校(現東京芸術大学)彫金科へ入学。全国から彫金師を志す学生と共に切磋琢磨し、技術を磨き合いました。また、東京美術学校に所属することで多くの情報を得、さらには多くの人脈を築き、後の玉川堂の経営に活かされることになります。卒業後は、東京で学んだ最先端の彫金技術を玉川堂へ移入させ、次々と新感覚の製品を生み出し、玉川堂製品は近代化へ画期的発展を遂げました。一方で、明治時代は玉川堂にとって数々の不運に遭遇した時代でもあります。身内の度重なる早死、代表作を積んだ船の沈没、為替相場の変動や海外バイヤーの詐欺によって財産を失い、工場を移転。再起をかけて新築した工場は、明治41年(1908年)の燕の大火で全焼。玉川堂は苦難の連続でもありました。

時代は大正、そして昭和へ。昭和初期は全国的な大不況で、玉川堂も仕事量が激減。玉川堂の職人は仕事がなく、一時期、土木作業員として働いていたこともありました。玉川堂は何度も経営危機に陥ったものの、この時ばかりは深刻で、4代目は東京美術学校の教員になろうかと真剣に考えたそうです。まさに廃業寸前の時、自身の私財を投入してでも横浜に玉川堂の分工場を開業させたいという一人の人物が現れました。横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)校長・鈴木達治氏です。鈴木氏は玉川堂工場見学の際、銅器の可能性を強く感じ、私財投入に加え横浜市の補助金も斡旋し、昭和5年、横浜分工場の開業を実現させました。玉川堂にとって鈴木氏は、まさに時の救世主だったのです。経営危機に瀕していた玉川堂は横浜で再起を図ろうと、燕本社は4代目が指揮を取り、私の祖父である5代目覚平自ら横浜へ移住し、横浜工場長に。さらに技術優秀な職人は全て横浜へ派遣させ、背水の陣で関東圏の販路開拓に努めました。開業後も鈴木氏のご支援は絶大で、当時の横浜市長・大西一郎氏へお声掛けいただき、各界著名人36名が発起人となって、横浜市で玉川堂後援会を発足。横浜市からの皇室献上品は玉川堂製品をお選びいただくなど、多大なるご支援を受けました。5代目覚平は「鈴木達治氏の功績は、玉川堂の後世に伝えてほしい」と、文献を残しています。

戦時中、金属回収令により銅の使用が出来なくなり、昭和17年に横浜分工場、昭和18年には燕本社の営業停止も命じられ、玉川堂従業員は全員解雇されました。職を失った5代目覚平は、燕の金属加工職人を集め「燕航空工業株式会社」を設立し、飛行機の胴体金属部分の製作を行いながら終戦を待ちました。そして、終戦後は直ぐに離散した玉川堂元従業員を玉川堂本社へ戻す活動を行い、再び銅器製造を再開しました。戦前の業務体制が整いつつあった昭和25年、今度は朝鮮動乱の影響で銅の価格が3倍以上に跳ね上がり、復興したばかりの銅器屋が複数廃業するほどの大不況に陥り、またも廃業の危機に。5代目覚平は、新潟県に対し無形文化財に指定していただく活動を行い、昭和33年、玉川堂の技術は「新潟県無形文化財」に指定されました。この指定が契機となり、徐々に経営状況は好転。私の父、6代目政男の代になると、昭和55年、文化庁より「選択無形文化財」に指定され、玉川堂から独立した銅器屋を中心に銅器組合を設立し、当時の通商産業省「伝統的工芸品」の指定も受けました。高度成長期、安定成長期、バブル期という経済状況にも恵まれ、玉川堂製品は、主に新潟県内の企業や公官庁の贈答品にご使用いただき、工場は常にフル稼働。贈答品の売上は総売上の約8割を占めました。

しかし、贈答需要に頼っていた事業体制に陰りが見え、バブル崩壊後、贈答品の注文は激減しました。私が入社した1995年、経営はすでに末期症状で、私の入社と同時に従業員を半数解雇し、私は1年間ほぼ無給で、まずは販路開拓から取り組みました。玉川堂→産地問屋→百貨店問屋→百貨店→お客様という問屋ルートを廃止し、翌1996年には、玉川堂→百貨店→お客様という商流へと移行させ、お客様や百貨店販売員と直接会話し販売することを実現しました。贈答品の売上8割から、自家需要の売上8割へと売上構成比を逆転すべく、毎週のように職人を全国各地の百貨店へ派遣して実演販売会を行い、お客様の声を反映させるものづくりを取り入れました。現在は「自分たちで作った製品を、自分たちのお店で、自分たちが丁寧に販売する」を念頭に、百貨店での実演販売会を廃止し、主に燕本店と2014年に開業した東京・南青山の直営店での売上比率を高める事業を展開しています。さらには創業200周年プロジェクトの一つとして、来春、銀座に東京2号店を開業する準備を進めており、銀座の次は海外での直営店開業を事業計画に盛り込み、直営店をさらに強化していきます。

私のビジョンは、燕三条を国際産業観光都市へと発展させ、直営店を玉川堂本店に集約し、本店売上を100%にしていくことです。玉川堂5年・10年・15年計画を立てており、これは15年計画(私が60歳の時)にあたり、本店以外の直営店は、メンテナンス機能として一部残します。玉川堂のコーポレートスローガンは「打つ。時を打つ。」。職人が金鎚で銅器を「打つ。」、そして、お客様が銅器をご家族の一員としてご愛用していただき、時を重ねていただく(「時を打つ。」)ことで、銅器はより美しさを増していきます。そのためには、国内外の直営店で丁寧に商品説明し、玉川堂スタッフの手によって、直接お客様へ銅器をお渡しすることが不可欠と考えており、15年後は、玉川堂の銅器は全て新潟県燕市の本店でお渡しすることが究極の理想です。この15年計画を実現すべく、燕三条の工場を観光資源とし、燕三条を国際産業観光都市へと発展させる地域の取り組みに尽力していくことも、玉川堂の重要な事業と認識しています。世界中の方々から燕三条の工場へ、玉川堂の工場へ見学にお越しいただき、お客様と職人が直接ふれあう共存共栄の魅力あるまちづくり、ものづくりを私たちの世代で確実に行っていくことが、100年後の玉川堂創業300年に繋がっていくものと信じています。

玉川堂メールマガジン【第90号】より
(2016年1月1日発行)

 

 

玉川堂創業200周年 新年ご挨拶

謹んで新年の御祝いを申し上げます。
1816年、玉川堂初代・玉川覚兵衛が17歳の時に銅器製造を開始し、
以来、銅器製作一筋にあゆみ、今年2016年で創業200年を迎えました。
長きに渡る皆様方のご支援に、心から感謝いたしております。
玉川堂コーポレートスローガン「打つ。時を打つ。」を心に次の百年を見据え、
これからも皆様と共に「時を刻む」ものづくりを目指して参ります。
本年もよろしくお願い申し上げます。

2016年元旦
玉川堂7代 玉川基行


玉川堂200年の歴史と300年への将来展望
玉川堂7代 玉川基行

江戸時代初期、燕三条を流れる信濃川は数年に1度の割合で氾濫を起こし、農民は貧困を極めていました。その農民救済のための副業として和釘の製作が奨励されると、農作物被害のリスクを避け、農業から和釘製作へと業種転換する農民が相次ぎ、次第に燕三条は全国有数の和釘産地へと発展。燕三条に金鎚を使用する風習が生まれました。当時村上藩(現新潟県村上市)の支配下であった燕地域は、1650年頃、村上藩の指示により、この金鎚を使用する技術を応用した神社の金具など、銅細工の製作が行われるようになります。これから銅を使用する風習が生まれ、1700年頃、近郊の弥彦山から銅が産出されると、和釘と共に銅細工も一層盛んとなります。玉川堂初代以前の玉川家も、3代に渡って銅細工の製作を行っていました。そして、明和年間(1760年代)、仙台の渡り職人が鎚起銅器の製法を燕地域に伝えると、1816年、玉川堂初代玉川覚兵衛は、玉川家で代々継承されてきた銅細工製作から鎚起銅器製作へと移行。鍋・釜・薬鑵など日常雑器を製作し、弟子も5人以上抱え、燕地域で鎚起銅器の礎を築きました。

玉川覚次郎が2代目を継承した頃、日本の工芸業界に大きな変革が起こりました。1868年、明治政府の誕生です。明治政府は工業化の資源を得るために、全国の工芸業界へ海外博覧会出品を促し、輸出拡大を図る政策を掲げました。この政策は欧州の最新の工芸技術を学ぶことで、日本の工芸技術の向上を図ることも目的としています。日本の工芸業界はこの明治政府誕生とその政策を機に、日常生活道具から美術工芸品へと生産転化する気運が生まれました。田舎の小さな銅器屋である玉川堂にも海外博覧会出品の要請があり、これまでの日常雑器の製作から、海外博覧会へ出品するための美術工芸品の製作を開始し、日本が初めて公式参加した明治6年(1873)、ウィーン万国博覧会へ出品。以降、日本は海外博覧会出展の常連国として名を連ねます。また、明治政府の主導で日本国内の博覧会も頻繁に開催されたことで、日本の技術レベルは格段に進歩し、玉川堂も博覧会の存在によって、技術力向上に大きく貢献することとなりました。

明治15年(1882年)、2代目覚次郎の隠居に伴い、長男の覚平が30歳の時、玉川堂3代目に就任します。この時は、海外博覧会用の本格的な美術工芸品を製作しようと、新製品・新技術の開発を模索している真っ只中。新しい思考を玉川堂に取り入れ、海外販路を開拓していく転機の時期でもあり、ベストタイミングでの3代目就任となりました。3代目覚平は、鍛金(金属を叩いて器にする技法=鎚起銅器)では世界で通用しないと判断し、欧州の工芸と対等に競い合うためには彫金(銅器を彫るなどして模様を付ける)の技術が不可欠と考えました。そこで、玉川堂工場を増築し、彫金の図案は東京と三条地域の日本画家に描かせ、東京の彫金師と高田藩(現新潟県上越市)で失職した鍔師5名を玉川堂の職人として招聘しました。玉川堂は日本トップクラスの彫金技術を保有したことで、海外博覧会にて連続入賞し、明治27年(1894年)には皇室献上の栄誉を受け、以降、皇室の御慶事には玉川堂製品の献上が習わしになるなど、国内外で高い評価を受けるようになりました。

3代目覚平の経営手腕によって玉川堂は大きく発展したものの、招聘した彫金師の退職などによって彫金技術は徐々に弱体化。外部の彫金師を招聘するのではなく、身内から優秀な彫金師を育てようと、長男・健太郎(4代目覚平)を帝室技芸員・海野勝眠氏に弟子入りさせました。健太郎はさらに技術を高めるべく東京美術学校(現東京芸術大学)彫金科へ入学。全国から彫金師を志す学生と共に切磋琢磨し、技術を磨き合いました。また、東京美術学校に所属することで多くの情報を得、さらには多くの人脈を築き、後の玉川堂の経営に活かされることになります。卒業後は、東京で学んだ最先端の彫金技術を玉川堂へ移入させ、次々と新感覚の製品を生み出し、玉川堂製品は近代化へ画期的発展を遂げました。一方で、明治時代は玉川堂にとって数々の不運に遭遇した時代でもあります。身内の度重なる早死、代表作を積んだ船の沈没、為替相場の変動や海外バイヤーの詐欺によって財産を失い、工場を移転。再起をかけて新築した工場は、明治41年(1908年)の燕の大火で全焼。玉川堂は苦難の連続でもありました。

時代は大正、そして昭和へ。昭和初期は全国的な大不況で、玉川堂も仕事量が激減。玉川堂の職人は仕事がなく、一時期、土木作業員として働いていたこともありました。玉川堂は何度も経営危機に陥ったものの、この時ばかりは深刻で、4代目は東京美術学校の教員になろうかと真剣に考えたそうです。まさに廃業寸前の時、自身の私財を投入してでも横浜に玉川堂の分工場を開業させたいという一人の人物が現れました。横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)校長・鈴木達治氏です。鈴木氏は玉川堂工場見学の際、銅器の可能性を強く感じ、私財投入に加え横浜市の補助金も斡旋し、昭和5年、横浜分工場の開業を実現させました。玉川堂にとって鈴木氏は、まさに時の救世主だったのです。経営危機に瀕していた玉川堂は横浜で再起を図ろうと、燕本社は4代目が指揮を取り、私の祖父である5代目覚平自ら横浜へ移住し、横浜工場長に。さらに技術優秀な職人は全て横浜へ派遣させ、背水の陣で関東圏の販路開拓に努めました。開業後も鈴木氏のご支援は絶大で、当時の横浜市長・大西一郎氏へお声掛けいただき、各界著名人36名が発起人となって、横浜市で玉川堂後援会を発足。横浜市からの皇室献上品は玉川堂製品をお選びいただくなど、多大なるご支援を受けました。5代目覚平は「鈴木達治氏の功績は、玉川堂の後世に伝えてほしい」と、文献を残しています。

戦時中、金属回収令により銅の使用が出来なくなり、昭和17年に横浜分工場、昭和18年には燕本社の営業停止も命じられ、玉川堂従業員は全員解雇されました。職を失った5代目覚平は、燕の金属加工職人を集め「燕航空工業株式会社」を設立し、飛行機の胴体金属部分の製作を行いながら終戦を待ちました。そして、終戦後は直ぐに離散した玉川堂元従業員を玉川堂本社へ戻す活動を行い、再び銅器製造を再開しました。戦前の業務体制が整いつつあった昭和25年、今度は朝鮮動乱の影響で銅の価格が3倍以上に跳ね上がり、復興したばかりの銅器屋が複数廃業するほどの大不況に陥り、またも廃業の危機に。5代目覚平は、新潟県に対し無形文化財に指定していただく活動を行い、昭和33年、玉川堂の技術は「新潟県無形文化財」に指定されました。この指定が契機となり、徐々に経営状況は好転。私の父、6代目政男の代になると、昭和55年、文化庁より「選択無形文化財」に指定され、玉川堂から独立した銅器屋を中心に銅器組合を設立し、当時の通商産業省「伝統的工芸品」の指定も受けました。高度成長期、安定成長期、バブル期という経済状況にも恵まれ、玉川堂製品は、主に新潟県内の企業や公官庁の贈答品にご使用いただき、工場は常にフル稼働。贈答品の売上は総売上の約8割を占めました。

しかし、贈答需要に頼っていた事業体制に陰りが見え、バブル崩壊後、贈答品の注文は激減しました。私が入社した1995年、経営はすでに末期症状で、私の入社と同時に従業員を半数解雇し、私は1年間ほぼ無給で、まずは販路開拓から取り組みました。玉川堂→産地問屋→百貨店問屋→百貨店→お客様という問屋ルートを廃止し、翌1996年には、玉川堂→百貨店→お客様という商流へと移行させ、お客様や百貨店販売員と直接会話し販売することを実現しました。贈答品の売上8割から、自家需要の売上8割へと売上構成比を逆転すべく、毎週のように職人を全国各地の百貨店へ派遣して実演販売会を行い、お客様の声を反映させるものづくりを取り入れました。現在は「自分たちで作った製品を、自分たちのお店で、自分たちが丁寧に販売する」を念頭に、百貨店での実演販売会を廃止し、主に燕本店と2014年に開業した東京・南青山の直営店での売上比率を高める事業を展開しています。さらには創業200周年プロジェクトの一つとして、来春、銀座に東京2号店を開業する準備を進めており、銀座の次は海外での直営店開業を事業計画に盛り込み、直営店をさらに強化していきます。

私のビジョンは、燕三条を国際産業観光都市へと発展させ、直営店を玉川堂本店に集約し、本店売上を100%にしていくことです。玉川堂5年・10年・15年計画を立てており、これは15年計画(私が60歳の時)にあたり、本店以外の直営店は、メンテナンス機能として一部残します。玉川堂のコーポレートスローガンは「打つ。時を打つ。」。職人が金鎚で銅器を「打つ。」、そして、お客様が銅器をご家族の一員としてご愛用していただき、時を重ねていただく(「時を打つ。」)ことで、銅器はより美しさを増していきます。そのためには、国内外の直営店で丁寧に商品説明し、玉川堂スタッフの手によって、直接お客様へ銅器をお渡しすることが不可欠と考えており、15年後は、玉川堂の銅器は全て新潟県燕市の本店でお渡しすることが究極の理想です。この15年計画を実現すべく、燕三条の工場を観光資源とし、燕三条を国際産業観光都市へと発展させる地域の取り組みに尽力していくことも、玉川堂の重要な事業と認識しています。世界中の方々から燕三条の工場へ、玉川堂の工場へ見学にお越しいただき、お客様と職人が直接ふれあう共存共栄の魅力あるまちづくり、ものづくりを私たちの世代で確実に行っていくことが、100年後の玉川堂創業300年に繋がっていくものと信じています。

玉川堂メールマガジン【第90号】より
(2016年1月1日発行)