江戸時代以来の生活実用品製作へ

 新潟県燕市の金属加工の起源は、1630年頃、農民の副業として和釘の製作を始めたことに端を発します。その約20年後の1649年、燕は村上藩に組み 入れられ、村上にある羽黒神社の御輿の金具を中心とした銅細工製作が始まりました。1690年頃、燕の近郊の弥彦山で銅山が開鉱すると、さらに銅細工製作 が盛んとなり、玉川堂初代以前の先祖も、銅細工職人であったことが、玉川堂の文献に残されています。さて、この銅細工製作は、江戸時代後期、仙台の鎚起銅器職人の来燕により、次第に鎚起銅器製作へと発展していきますが、玉川堂の祖、玉川覚兵衛の頃は、鍋、釜、やかんなどが製作されていました。銅細工で培われた技術が、生活道具としての製作に生かされたのです。

 明治に入り、2代目玉川覚次郎の代になると、明治政府の輸出奨励策を受け、漸次工芸品的要素が加味され、次第に生活実用品の製作から、美術工芸品へと生 産転化しました。花瓶や香炉などに日本画の図案を彫刻するなど、海外博覧会向けの作品を数多く制作するようになり、明治、大正、昭和に掛けて、美術的要素 の強い作品の排出力が、鎚起銅器業界の評価対象になりました。次第に、鎚起銅器が無形文化財や伝統工芸品に指定されると、主に花器や額などの飾り物を中心 とした製品が、企業や官公庁の贈答品に使用されるようになったのです。

 しかし、平成に入りバブルが崩壊すると、明治時代から生産されてきた飾り物が売れなくなり、江戸時代以来の生活実用品の需要が高まってきました。鎚起銅 器業界は、8割が贈答品で占められていた販売需要を、逆に8割以上を自家需要に転化することを要求される時代となったのです。これは全国の伝統工芸業界に共通する課題であり、生産や販売面だけに留まらず、経営システムの見直しを迫られています。ただ、この傾向はモノづくりを行 う体制としては、むしろ歓迎すべき傾向であり、江戸時代以来あと回しにされてきた、生活で必要な道具を創る時代になったことに感謝したいと思います。

 江戸時代の鎚起銅器職人は、弥彦山裏の間瀬銅山の銅を使用し、厳しい気候条件に耐えるための生活道具を製作していました。そして現在、安らぎのひと時に うるおいを与える、少し贅沢な生活道具に需要は高くなっています。より快適な生活を送るためにものづくりを行う、というキーワードは、今も昔も変わること はありません。鎚起銅器業界に「モノづくりの本質」を追求できる時代が、ついに到来したのです。