[第125号] 出雲國たたら製鉄に見る、伝統技術の復興と経営

 たたら製鉄とは、砂鉄と木炭を用い、低い温度で長時間かけて砂鉄を還元し、玉鋼 (たまはがね) を作り出す技法です。鉄鉱石とコークスを用い、高温で一気に作り上げる通常の鉄と比較しすると、不純物元素の含有率が極めて低くなり、それによって、堅牢かつ錆びにくい世界最高峰の鋼が生まれます。鋭い切れ味を実現させることから、主に日本刀の材料として全国各地に供給され、法隆寺や東大寺をはじめとする釘も、千年以上を経てなお建物を支え続けています。室町時代から江戸時代にかけ、島根県の奥出雲地方における良質な砂鉄と豊富な森林資源をもとに、田部家、櫻井家、絲原家の三大鉄師が製鉄業を開始し、たたら製鉄は奥出雲地方の基幹産業として発展。玉鋼の全国生産約80%を占め、質と量共に日本一の生産地としてその名を馳せたのです。

 玉鋼は耐久性や耐食性に極めて優れており、貴重な金属であるがゆえに、それを作り出す作業は過酷です。灼熱の炎が燃え盛る作業場の中で、3日間交代制で不眠不休で作業を行います。まさに熱さとの戦いであり、体力の消耗の激しい作業です。また、歩留まりが悪く、性質上ムラの出やすい素材のため、五感を駆使して炎の色や砂鉄が溶ける音などを見計らいながら全神経を集中させるため、精神的な疲労も計り知れません。火を読み、風を読み、砂鉄の煮える音を読むことで新しい生命「鉧(けら)」(鋼の塊)が誕生します。たたら製鉄で最も重要な要素となるのは、人間の誠実さ。鋼に対して誠実に向き合う姿勢が、「鉄」の「母」である美しい「鉧」を生むと言われており、奥出雲地方には「誠実は美鋼を生む」という格言が残されています。

 奥出雲地方は江戸時代を中心に、たたら製鉄に従事する人で活況を呈し、街は栄えていましたが、明治時代に大量生産の洋鉄技術が流入されると、玉鋼の需要は減少。それに伴って徐々に街は廃れていき、大正末期、たたら製鉄の技法は完全に消滅しました。以降、蓄えていた玉鋼も底を付く状態となったため、新しい科学技術で代替原料を作ろうと、当時の通産省や大手企業などが共同開発を試みましたが、同等の品質を開発することは出来ず、それを見かねた日本美術刀剣保存協会がたたら製鉄の復活を試み、昭和52年、玉鋼を再度生み出すことに成功しました。早速国は、財保護法の選定保存技術に選定。現在も少量ながら玉鋼を生産しており、主に日本刀の材料として使用されています。

 そんな中で、たたら製鉄を本格的に復興させようとする企業が現れました。室町時代からたたら製鉄で栄えた田部家の流れをくむ、松江市「株式会社田部」です。建築、テレビ局、食品など、約30の事業を運営する島根県の名門で、田部長右衛門社長(田部25代目)は創業の原点に立ち返り、たたら製鉄を自社でも復活させようと「たたら事業部」を設置。たたら製鉄の職人を育て、現代の価値観にあった商品開発だけでなく、たたら製鉄の事業で利益と雇用を生み出し、さらには産業観光として国内外の観光客を呼び込む戦略を立てています。時代に合うよう工夫を重ね家業を繋いでいく精神。25代目当主が出した答えは、奥出雲地方を再び一大産業化させることでした。

 伝統産業や伝統工芸の世界では、後継者不足により途絶えた技術がある一方で、一度途絶えた技術を復活させる動きも全国的に出始めています。その多くは技術の復活に重点が置かれていますが、「株式会社田部」の場合はそれだけに留まらず、経営力による地場産業としての再興を試みているのです。奥出雲地方のたたら製鉄の復興により、今後、玉鋼という素材が注目を集めることでしょう。特に世界の刃物業界にとって玉鋼は垂涎の的。私たち燕三条地域との技術連携による商品開発が実現すれば、世界一流のシェフ(包丁)、ソムリエ(ソムリエナイフ)、ネイリスト(理容道具)などとのコラボレーションの可能性が広がります。職人が心血を注いで生み出す玉鋼。いにしえより様々な文化財に利用され、日本の文化を支えてきたこの無二の素材が、燕三条の歴史に裏付けられた技術と掛け合わされることで、刃物のブランドに新たな息吹が吹き込まれることを期待せずにはいられません。