[第107号]人と地域を結ぶ商店街の在り方

1929年(昭和4年)、アメリカ合衆国で勃発し世界中を巻き込んだ世界恐慌の影響が日本にも及び、昭和5〜6年にかけて空前絶後の大不況が襲いました。いわゆる昭和恐慌です。戦前の日本における最も深刻な不景気で、全国的に廃業が相次いだ時期。玉川堂も例に漏れず廃業寸前まで追い込まれた時期で、仕事がないため銅器職人は土木作業員として働き、日銭を稼いでいました。そのような経済状況の中、貧困にあえぐ農民の中には農家を捨て職を求めて、家族で都会へ移動する人が急増しました。しかし都会では、農民たちが予想していた以上に雇用が少なかったため、食料品や日用品など資本をそれほど必要としない商品を扱う小さな小売業を開業する傾向が生まれ、それらのコミュニティが形成されるようになりました。これが商店街の始まりであり、昭和恐慌を契機に農村から都市への流動化を背景にして生まれたビジネス形態です。その後太平洋戦争によって日本は焼け野原になりましたが、戦後の復興と共に商店街もまた活気を取り戻し、日々の暮らしの場に欠かせない存在として日本の経済を支えてきました。

しかし街の中心として賑わった商店街も、1980年代初頭をピークに衰退の一途を辿ります。その背景には、郊外の無料駐車場付き大型店に人々が流れたこと、旧態依然の品揃えが、顧客ニーズに呼応したコンビニや専門量販店の製品に負けたことなどがありますが、その大きな誘因は、後継者問題にあります。商店街を引き継ぎ市場を維持する人材を育成出来なかったのです。江戸時代から明治時代にかけての商家は、家族経営であるものの奉公人を抱え、優秀な奉公人にはのれん分けさせるなどして事業継続を図っていました。また、跡取りのいない場合は奉公人など家族以外の人材を登用するなど、店を後世に残すという目的意識が大変強い時代でした。しかし、戦後は家族だけで経営する店が増え、自分の代で商売を終えても良いという考え方に移行していきます。子供には不安定な店を継がせるより、安定した職業に就き自立することを親は望み、そして子供も家業には拘束されず職業を自由に選択したいという風潮が生まれます。家族という閉ざされた領域で事業選択も家族単位に閉じたものになり事業継承が気薄になっていく中で、商売が成り立っている店ですら次々と閉店。こうして商店街の衰退は表面化していったのです。

さらに、地権者の問題も商店街の基盤を揺るがす大きな問題として残ります。商店街に土地や建物を持つオーナーの多くは、高度経済成長期に貸しビル経営やアパート経営にも着手しており、その収入が安定すれば商店街の空き店舗対策は急務ではなくなります。よって地権者の商店街活性化への意識が薄く、もし借り手が出現してもバブル期と同じような不合理に高い家賃を提示し、結局破談となるケースが多いとのこと。不動産会社の指導のもと適正な価格を提示しないと、商店街活性化以前の問題となります。また、多くの店舗経営者は自身の所有物件のため、空き店舗となった場合でも「住まいも一緒なので貸したくない」「貯蓄があるので貸すのが面倒」などの理由で賃貸に消極的な例も多いのです。まず地権者が商店街活性化に利を得る仕組み作りが、抜本的な商店街の再生への課題とも言えます。

こうした中で、膠着しがちな土地問題に風を通し、市民の手によって飛躍的に活気を取り戻し再生を遂げた商店街が存在します。高松市「高松丸亀町商店街」です。従来結びついていた土地の所有権と利用権を分離することで、商店街を中心とした町づくりを行った成功例です。高松丸亀町商店街振興組合は、地元住民を中心としたまちづくり会社「高松丸亀町まちづくり株式会社」を立ち上げました。この会社がデベロッパーとなって定期借地を導入し、商店街を構成する全ての地権者から地主や家主の権利を一旦預かる形で商業床を取得。さらにこの商業床を一体的にマネジメントする画期的な取り組みを行ったのです。これにより真っさらな状態からの自由な商店街づくりが可能となり、高齢化社会に向けての車のいらないまちづくりをテーマとした商店街の構築が始まります。大きな特徴は「平面のゾーニング」と「再開発ビルにおける職住一致」。まずは街全体にA〜Gまでの街区を設定し、A街区には整備された広場、B街区には飲食店、C街区にはライフスタイル提案型店舗と医療施設といった具合に、目的別にゾーニング。さらには再開発ビルを建設し、1〜3階を商業フロア、4階にレストランとコミュニティ施設、さらに5〜9階を住宅とし、職住一致の戦略を実現。このように、市民が立ち上げた会社が、街に必要な機能をコミュニティビジネスとして運営し、より市民が利用し易い商店街の形態を実現したのです。自動車に依存しないコンパクトシティーのモデルケースとしても注目されており、人と人とがふれあえる商店街の再構築は、国民の3人に1人が高齢者になると予測される今こそ重要となります。

高松丸亀町商店街の取り組みが商店街を中心とした市民生活を機能させることに成功したのは、街のレイアウトという枠組みの整備だけでなく、それを運営する人材配置と経営的なフォローまで担ったことにあります。全国の商店街の多くが活性化のために様々な対策を行ってきましたが、昔の街並み再生やイベント開催などどちらかと言うと内向きの発想になりがちで、その多くは局所的な盛り上がりにはなるものの街全体の活性化にまでは結び付いていません。その点高松丸亀町商店街は、若者の新規開業サポートや、近所のライバル店である高松三越も施設内に参入させるなど、周辺地域との連携も推し進めてきました。存続させるのは何と言っても人の力。店舗誘致のみを目的とするのではなく、起業意欲旺盛な若者の情熱を取り込み、起業する場を提供し、経営のノウハウを伝授し継続的にサポートしながら店舗としての成熟を促す仕組みづくりが求められます。資本も経営資源も乏しい若者が起業する場を提供する意味においても、商店街の意義が見直されてくると思います。

連携の輪を広げることに関しては、商店街と地元の地場産業との関係もこれからの活性化策として必要不可欠となります。地域市民が集う場としてはもとより、観光客に街の魅力を発信する場所としても、商店街の再生は大変重要な課題であると言えます。全国どこでも同じ品揃えの郊外型大型店ではなく、地域ごとに様々な個性が表現できる商店街は、観光資源としても十分に存在意義を示す事が出来、国内の観光客だけでなく海外からのインバウンドも取り込める可能性を秘めています。国際産業観光都市を目指す私たち燕三条を例にとれば、工場見学と商店街が連携することで、より地域の文化背景を深掘りすることが出来ます。喫茶店、菓子店、酒屋など、各店舗には燕三条の文化が凝縮されており、店員との会話の中でさらに燕三条の魅力を認識することが出来ます。街全体の変化に応じて、商店街のあり方も変化しなければならない時代です。商店街単独での活性化では行き詰まるだけ。商店街活性化はその地域の農工商全体で取り組む必要があり、常に時代に呼応した商店街の役割を、地域全体で考えていく必要があります。起業意欲旺盛な若者の情熱を取り込み商店街活性化を地域全体で取り組めば、商店街は新時代を迎え、100年後も地域の核となる存在であり続けていくことでしょう。