[第94号]欧米人を驚愕させた明治時代の工芸品

明治時代、海外博覧会用に製作された工芸品は、世界の美術史上稀に見ぬ精巧な作品群が並び、欧米諸国の人々に大きな衝撃を与えました。鎖国が解禁され、未知の国・日本の抜きん出た技術力の高さに欧米人が驚愕、絶賛し、欧米で日本ブーム「ジャポニズム」が興ります。工芸品の輸出は外貨を獲得するための明治政府の重要な政策であったため、海外博覧会の出品のために材料費や製作費が職人へ支給されました。職人達は一つの作品製作に何年も掛けるなど、現代では考えられない程の手間暇を掛けて、欧米人が驚くような作品を丹念に作り上げました。ただ残念なことに、輸出用の作品は日本国内において、その全貌を目にする機会がありませんでした。海を渡った後、作品の多くはそのまま欧米の富裕層が購入し、今でも欧米諸国のどこかで所蔵されているからです。海外博覧会に出品した玉川堂製品も数点しか手元になく、行き先は不明のままです。

明治時代の工芸が花開く前兆は、江戸時代という長く平和な時代が続いたことにあります。甲冑や刀剣といった本来武器である道具が、男の道具としての趣味が高じて、次第に高級美術品へと進化していきました。戦争が無かったため、技術の追求が軍事用品ではなく工芸の美的感性へと向い、裕福な武家は何年も掛けて美しい刀装具などを職人へ作らせていました。また、大名の婚礼調度品や印籠に見られる高度な蒔絵なども需要が高く、漆器の装飾技法も江戸時代で大きく発展します。当時は、使用している道具のレベルでその人の地位や身分が表現されたため、自分の趣味嗜好にあった逸品を求め、いかなる労力もいとわなかったそうです。日本という文明国が約260年間戦争を行わず、鎖国状態の中で独自の文化を築いたことは世界的にも稀なケースですが、この稀な太平の世が日本の技術力の礎になったとも言えます。

しかし、明治4年に幕藩体制が崩壊すると、各藩のお抱えであった職人たちは一斉に職を失います。江戸時代に脈々と築かれてきた文化と技術が存続の危機にさらされたのです。それを救ったのが明治6年、日本が初めて公式参加した海外博覧会「ウィーン万国博覧会」への出展です。明治政府は国内需要ではなく海外市場を視野に入れ、日本の技術力を欧米諸国へ売り込もうと、欧米人があっと驚くような絢爛豪華な作品の創出を目指しました。この政策は職を失った全国の職人のモチベーションを高め、職人たちは新たなものづくりへと邁進していきます。玉川堂でも鍛金技術では海外で通用しないと判断し、東京の彫金師や高田藩(現上越市)の鍔師を玉川堂へ招聘し、輸出用の彫金作品の製作を開始しました。日本全国の職人が手掛けた作品は、博覧会の回を重ねるごとに洗練され、世界の美術史上に類を見ない超絶な技法を駆使した工芸品が、次々と海を渡っていきます。

当時の海外博覧会は商業的見本市の要素が強く、展示されている作品は購入することが出来ました。日本の工芸品は技術力が他国より抜きん出ていたため、人気が集中したとのこと。今でも明治時代の名品が市場に流出すると、欧米のコレクターが日本人よりも高値で購入するため、日本の古美術商の店頭に並ぶことはほとんどありません。近年、中国を中心としたアジア系の富裕層が明治時代の工芸品の収集に奔走しており、競売はさらに激化しています。明治時代の輸出品の代表格と言える工芸品は、ロンドンの「ビクトリア&アルバート美術館」でも鑑賞することができます。明治時代の日本工芸品を世界一所蔵している美術館とも言われ、私もロンドン出張の際、所蔵品の一部を鑑賞しましたが、そのレベルの作品となると常設展示している日本の美術館はほとんどなく、日本人として寂しい気もしました。

明治30年代以降、日本は軍事化と工業化を急速に進めたため、工芸は一気に衰退していきます。明治27年・28年の日清戦争、明治37年・38年の日露戦争と戦争続きのため国の予算が軍事費に集中し、工芸に対しての国の予算は激減。さらには、国全体が工業化へ向けて新たな事業展開を行う風潮が生まれ、工芸の優秀な人材の多くは工業の業界へ転身しました。また、日本の工芸品に触発されて欧州の工芸品レベルも向上し、名品が次々と誕生。パトロンである富裕層が欧州の工芸品にも目を奪われた影響も、日本工芸の衰退の要因の一つして挙げられます。玉川堂を例にとってみても、明治30年以降、彫金技術を駆使した絢爛豪華な花瓶や香炉などの製作は行われなくなり、実用的な製品の製作比重が高まりました。明治30年代以降の海外博覧会出品作品は花瓶や香炉などの装飾品ではなく、湯沸や水注などの実用的な製品を出品するようになりました。

明治10年代半ばから明治30年代のわずか20年程の間に、欧米人が驚愕する技術力を遺憾なく発揮した日本。国の権威を賭けて、全国各地の職人たちが輸出工芸品製作のために心を一つにし、一つの作品に対し何年も掛けて製作するというものづくりは、将来的に考えてもその再来は無いと言ってもいいかもしれません。文様をミリ単位で繊細に刻み、鋭い観察眼で動植物などを模した作品は本物と見違うほどで、まさに神技としか思えない究極の手仕事。開国を迎えた当時の日本が欧米列強と伍するために、ストイックなまでのものづくりを行っていた超絶技巧の作品群に触れると、そこには日本の計り知れない底力をを感じます。明治時代、輸出用に製作された玉川堂の作品は、現在、燕市産業史料館で開催中の「玉川堂創業200周年展」でご覧いただけます。玉川堂製品の変遷を辿ることで、日本の工芸の歴史の変遷も垣間見ることができます。この機会に、ご高覧いただければ幸いです。